月曜日ラビは太陽を止めた

Yiddish Civilisation: The Rise and Fall of a Forgotten Nation (Vintage)

Yiddish Civilisation: The Rise and Fall of a Forgotten Nation (Vintage)


ラビ・レーウ(1513−1609)はルドルフ2世(1552-1612)と同じ時代をプラハに生きた高徳のラビである。いまでは土くれからゴーレムを作り、身の回りの世話をさせた魔術師とばかり思われているが、もちろんそんなことはなく、かのゲルショム・ショレム大先生もハシディズムの先駆者として彼のことを評価している。また、カバラばかりか数学や天文学にも造詣が深く、当時の最先端の学説であったコペルニクスの説を理解していたという。

ところでこの時代、カトリックの人たちはコペルニクスのような聖書に教えに反する書物を焼いたり、本ばかりか人まで炙ったり、あるいは無理やり地球は静止していると言わせたりしていたそうだ。しかしキリスト教より更に聖書に厳格なはずのユダヤ教徒が、そんな非道な行為をしたという話はとんと聞かない。
ラビ・レーウの中で聖書とコペルニクス説はどう折り合いをつけていたのだろうか。もちろんルドルフ朝の特色である強烈なシンクレティスム(混淆主義)の影響を受けたという可能性もあるだろうが、同時にもっと根深いものがそこにはある。

旧約聖書ヨシュア記第十章に、ヨシュアが太陽を止めた話がでてくる。

主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。
「日よ。ギブオンの前で動くな。
月よ。アヤロンの谷で。」
民がその敵に復讐するまで、
日は動かず、月はとどまった。


この現象はもちろん天動説にも地動説にも、あるいはわれわれの経験則にさえ反しているわけだが、旧約に書かれている以上、ラビにとっては絶対の真実である。"Yiddish Civilisation"という本によると、ラビ・レーウはこれを次のように説明しているという。

太陽がいつもの行路をたどり、いっぽうそれと同時に、奇蹟のように停止することはありえる。なぜなら、一つの主体が、二つの対立するパースペクティブゆえに二つの状態をとることがありえるからである。自然の行路がパースペクティブの一、そして反自然的なものがその二である……したがって反自然的奇蹟を必要としたヨシュアイスラエル人にとって太陽は停止し、奇蹟を要しない余の人々は太陽の自然な運行を体験するのである。

えーとこれは相対性理論多世界解釈? とにかくなまなかのキリスト教徒などにはうかがい知れぬほど大変なことになっているのは確かだ。