事典の神秘


それにしても、アイウエオ順あるいはABC順に事項を並べるとはなんと不思議なことだろう。オカルトに疎いわが頭で考えると、これこそが魔術というものではなかろうかとさえ思われる。アルス・コンビナトリア。全き宇宙を現出させるための魔術。
この『日本幻想作家事典』にしても、たとえば、上代―中世ー近世―近代とかいうように、時代別に区分けして作家をまとめるという手だってあっただろう。しかしそんなことをしたら、この本は確実に貧しいものになってしまう。
式亭三馬の次に時雨沢恵一を置くこと、火浦功の次に稗田阿礼を置くこと。これこそが宇宙を現前させるためになくてはならぬ秘法だ。なぜならば、宇宙は一つしかないことによって宇宙なのであるから。分断を本来許さないものであるから。
その点アイウエオ順というのはよくできている。全体としてひとつの秩序(コスモス)であり、アとイの間には、イとウの間には、本質的な断絶はない。仮にあるとしても式亭三馬時雨沢恵一の断絶以上のものではない。
もうひとつよくできているのは、何か新しい要素によって秩序が破られるということがないことだ。どんなに新しいものが出てこようとも、その名が日本人に発音できる限り、必ずアからンまでのどこかに納まる。したがってこの宇宙には、宇宙の「外」というものがありえない。
さらにもうひとつ、アイウエオ順には隠された大いなる神秘がある。かって中井英夫は、短歌雑誌の編集長を辞したあと百科事典の製作に携わっていた。短歌と百科事典、一見何のつながりもないこの二つは、少なくとももうひとつの共通点をもつ。すなわち、音と意味が互いに異化され出会う場ということだ。短歌については言うまでもないだろう。極端に少ない言葉数で詩を生もうとするとき、音と意味はいきおい対立を迫られざるをえない。
事典においては、まず最初に来るのは音である。田代裕彦が多田智満子の隣にあるのは、この宇宙が音の支配のもとにあり、その秩序が音によってもたらされているからに他ならない。詩とか音楽とかを別にすれば、音がこれだけの専横を振るう場は、ほかにあまりないのではないか。
しかし、何にもまして神秘であり驚異であるのは、それほどの音の専横にもかかわらず、事典というものが、機能的には意味を与える場であるということだ。中井やボルヘスのようなある種の作家にとって、事典が尽きせぬ霊感の泉である理由の一端は、ここにあるに違いない。