百科事典=小説

 
 訳者解説によれば『ゼーノの苦悶』の原題を直訳すると「ゼーノの意識」となるそうだ。なるほどこれなら分らぬでもない。「ゼーノの苦悶」という邦題の落ち着きの悪さは――たとえば『ドグラマグラ』が外国語に翻訳されて『呉一郎の苦悶』と題されたらどうだろう。確かに呉一郎(かどうかは本当は分らないのだが)は苦悶していないわけではないが、やはり「なんか違うなあ」と思うだろう。だが、『呉一郎の意識』なら、まあ当たらずとも遠からずというところであろうか。

 『ドグラマグラ』との類縁はまだある。最初に精神科医が出てきて、この小説の主人公は自分の患者であると告げる。しかしあまりそれは気にならない。法律でいうところの無罪推定の原則ではないが、読者はとりあえず、小説の主人公を正気と推定して読む習慣ができているからだ。現に主人公の言動にとりたてて変なところはない……と最初のうちは思うのだけれども、だんだんその信頼は揺らいでくる。やがて小説の登場人物のなかにも、「あなたおかしいわ」と主人公に面と向かって言う人が出てくる。最初にそれを言うのが年端もいかぬ少女というのが面白い。裸の王様?

 で、たまたまある本を読んでいたら、『ゼーノの苦悶』についてこんなことが書いてあった。「『ゼーノの苦悶』から晩年の短篇集にいたるまで、ズヴェーヴォは分析の魔にとりつかれている。それは全体性をことごとく分解し、そこから生の百科事典を作ろうと望んでいるかのように。/この伝統につらなる古典作家たち――カフカからブロッホ、あるいはムージルからカネッティにいたる――と同じく、ズヴェーヴォもまた、世界の測量士であり、百科全書派であり、ばらばらになった全ての破片に対して見出し語と定義を紙の上で与えるのだ」

 百科事典(エンサイクロペディア)といえば、高山宏が「百学連環」というように、まず「総合」ということが頭に浮かぶ。この文章の面白いのは、百科事典を「分解」といっているところだ。百科事典は全体をバラバラにして見出し語をつけ、アルファベット順に並べる。すると当然世界は断片化され、ある見出し語と、隣の見出し語は何の関係もないものとなる。
言われてみれば確かに、ブロッホの『夢遊病者たち』にしてもムージルの『特性のない男』にしても、いちおう「全体小説」というくくりに入れられてはいるけれども、何かが総合されているというよりは、何かがひたすら分解されているという印象を与えるではないか。そしてその本は、ズヴェーヴォの住むトリエステが旧オーストリア・ハンガリー帝国領であったことを踏まえて、更にこう言う。

 「二十世紀初頭から二十年代、三十年代にかけて文学を同時代的錯乱の用語集あるいは暗闇の幾何学的便覧に変貌させたオーストリア作家(あるいは中欧作家)の、あの偉大な、分析的にして倫理的・科学的な小説技法の系列にズヴェーヴォの小説は連なる」

 そうかな? すると『ゼーノの苦悶』という邦題もあながち的外れではないのかもしれない。いつか再読してみようと思う。