トリエステからはじまる

 
 
 本のタイトルは時として人を誤解させる。たとえば、まだ文庫というと時代の重みに耐えた古典を収めるものというイメージが強く、岩波文庫が★ひとつ50円だったころ、本屋に並ぶ『Xの悲劇』『Yの悲劇』といった背中の文字を見て、てっきり人間の悲劇を扱った深刻な純文学だとばかり思っていた。

 さてここに『ゼーノの苦悶』と題する小説がある。タイトルだけ見ると、ゼーノという人が苦悶しているえらく鬱陶しい話のようだ。この作品は、当時としてはひどく革新的であった集英社版「世界の文学」の栄えある第一巻に、あろうことかジェイムズ・ジョイスとカップリングされて収められた。

 ズヴェーヴォとジョイス、なぜ国籍が全然違う二人が一巻に収められたのだろう。その謎は巻末の解説を読めば一応の説明はつく。トリエステ時代にジョイスはズヴェーヴォの英語教師をしていて、かつズヴェーヴォは、『ユリシーズ』のハロルド・ブルームのモデルの一人だったというのだ。あと久しく筆を折っていたズヴェーヴォを励まして『ゼーノの苦悶』を書かせたのもジョイスだったそうだ。

 それだけ? いやいや、それだけであるはずはなかろう。そういえば、この集英社版「世界の文学」には、現代文学を概観するうえで一人重要な名が欠けている。他でもない、ローベルト・ムージルである。ムージルが入らなかったのは版権の関係だと思うが、ここでいささか妄想をたくましくすれば、ムージルの穴を埋めるために召喚されたピンチヒッターが、ズヴェーヴォではなかったのだろうか。実際、今にして思えば、彼の代理としてズヴェーヴォ以上に適任な人はちと思いつかない。旧世界と新世界をつなぐ役として、彼は文学史上ジョイスにバトンを渡したという以上の意義を持っている。

 それは別にしても、ズヴェーヴォは拙豚にとって恩人なのである。イタリア文学にたいするアレルギーを払拭してくれたという意味で。

 なぜアレルギーかというと、イタリアのユーモアが長い間不可解だったから。小説を読む動機の50%くらいは「笑いたいため」といっても過言ではない者にとってこれはつらいことだ。カルヴィーノの『むずかしい愛』のユーモアはすべっている気がしてならないし、エーコのエッセイはいやみな気がするし、ボンテンペリにいたってはどこが面白いのかさえわからない。

 ところが、『ゼーノの苦悶』のユーモアは、実に自然に笑えた。ユーモアというよりはギャグというべきものだったからかもしれない。この物語は乱暴に言えばある精神科医から逃げ出した患者の話である。はじめから30ページ目くらいで主人公のゼーノ氏は禁煙を決意し、自ら志願して病院に監禁される。ところが病室のドアを閉めて五分もたたぬうちに、彼は自分の妻が美男の主治医と浮気しているのではないかと心配で、いてもたってもいられなくなる。不安を鎮めるにはとりあえず煙草を吸うしかない。そこで彼は屈強の看護婦を酔い潰し、何とか煙草を手に入れようとする(この病院は変な病院で、煙草はだめだが酒はいくら飲んでもOK)のだが、ところがどっこい、看護婦はもの凄い酒豪で、酔えば酔うほど強くなる……といった話がのっけから展開する。どうです、面白そうでしょう? 訳文もきわめて快調なのが嬉しい。

 タイトルは『ゼーノの苦悶』だけれど、どこで苦悶しているのか分りませんね。それもそのはず、イタリア語の原題には「苦悶」にあたる言葉がない。

 で、なぜこんな話をはじめたかというと、今日ズヴェーヴォの名に意外なところで出くわしたからだ(以下次回)