娯楽としての悪意2

 
ミステリ、それもいわゆる本格ミステリの犯人を精神異常者に設定するのは、作中で幼児が殺されるのと同じくらいに興ざめなものだ。かの大乱歩も「殺人などしそうもない者が犯人だというのが探偵小説の魅力のひとつだといまだに思っている」と確かどこかで書いていた。

ところがこの『愚考録』の犯人はあからさまに心が壊れている。犯行もいきあたりばったりに近い。おまけに動機らしい動機がない。最初の一家惨殺事件に続く第二の事件ではいちおう明確な動機はあるけれども、やはり狂った動機というほかはない。

開巻一ページ目で読者が読むのは幼児虐待のエピソードだ(三歳児なのに満足に栄養を与えられず体重が一歳児程度しかなく……)。そしてあろうことか、この悲惨なエピソードはプロットに有機的に絡んでおらず、ただただ真犯人から読者の目をそらさせるミスディレクションの役しか負わされていないように、一見思える。結果としてこの作品は後味がものすごーく悪く仕上がっている。

しかしこの作品の場合、それが得体の知れないカタルシスを生み出している。なぜだろう。うまく説明できないが、筒井康隆の『虚航船団』と対比すれば話が通りやすくなるかもしれない。『虚航船団』は周知のように、消しゴムやコンパスや下敷きといった「発狂した」文房具たちを乗せた宇宙船団がイタチ族の住む惑星を殲滅する話である。文房具とはとりもなおさず執筆用具であって、作家がおのれの分身とするには絶好の対象だ。ここに己の狂気のみを武器として俗世間に闘いを挑む作家の姿を重ね合わせるのは、そう無理な解釈ではないであろう。

『愚行録』では紙幅の大部分を費やして俗物たちの「生活と意見」が、これでもかこれでもかと、えんえん描写される。それは『虚航船団』の第二部で世界史がパロディー化され人類の一大愚行絵巻と化しているのと好一対である。世界を覆いつくすこういった超愚昧にいささかなりとも対抗するためには、思い切って精神が壊れていることが必要なのではあるまいか。狂気にドライブされた行動をとるしかないのではあるまいか。『虚航船団』の文房具たちのように。『愚行録』の犯人のように。あるいは三島由紀夫のように。 

もちろんそういう狂気は現実世界においては何の意味ももたらさない。『愚行録』においても犯人の狂気は狂気のうちに鎖されるほかはない。ある種の楽天的な幻想文学のように、狂気の桂冠によって嘉されることはないのだ。