フリードリヒ・グラウザーI世閣下(1): 旅のはじまり旅のおわり

池田香代子氏は解説で、なぜ種村季弘は晩年にあれだけグラウザーの翻訳に入れ込んだのだろうと問うている。言外には「グラウザーみたいな大したこともない作家に」というニュアンスがある。これには少しく異論があるけれど、それはまた後日の話として、とりあえずは池田氏の問いからはじめよう。

まず思いついたのは、種村にとってスイスがヨーロッパ最後の地・最後の謎ではなかったのかということ。グラウザーは<スイスのシムノン>といわれた人だし、死の二年前に出た『ビリッヒ博士の最期』の原作者ヒュルゼンベックも、チューリッヒ・ダダ結成に参加した人だ(もっとも『ビリッヒ博士の最期』の翻訳初稿が雑誌「海」に載ったのは80年代のことだが)。

パラケルスス、カリオストロ、ザッヘル・マゾッホ、カスパール・ハウザーなどなど、定住することとは生涯無縁だった傑物たちに仮託して、同行二人さながらにヨーロッパを経巡った種村。その種村が最後にたどりついたのがスイスだった。(そういえば種村のグラウザー初翻訳作品『狂気の王国』の巻末では、オマージュすれすれの調子で作品の舞台たるスイスが解説されていた)

奇しくもそれは円環を構成する。なぜって、旅のはじまりともいえる著作『パラケルススの世界』、そのパラケルススの生地アインジーデルンもスイスの小村だったから。

グラウザーのミステリーでは、事件はたいてい辺鄙な田舎で起こる。われらが名探偵シュトゥーダーは不平をぶつぶつこぼしながら、山超え谷超え、放浪の旅さながらに現場まで赴くことになる。当然そこではシュトゥーダーはよそものだ。正義の化身であるはずの刑事が逆にうさんくさい目で見られる。一見放浪の山師、実は明敏なる知恵者。だんだんこのしょぼくれた刑事が、やはり放浪の山師=錬金術師パラケルススと重なって見えてくるではないか。この本のタイトルが『老魔法使い』である意味もおそらくはそこにある。けっして、「売れそうなタイトルだから」という理由でつけたのではないと思う。