どんな鞄?(5):末期のSF

 
 
 『氷』はおそらくアンナ・カヴァンがはじめて書いたSFらしいSFである。世界が氷で覆われていく現象には疑似科学的な説明が与えられているし、混乱に乗じて「長官」が独裁国を作るといった筋立てもSF的な世界観だ。(ちなみにこのどちらの要素も、おそらくは初期のヴァリアント『マーキュリー』には欠けている) この救いのない小説のなかで唯一の救いはこれがSFとして提出されている点だろうか。

 コノ救イノナイ小説ノナカデ唯一ノ救イハソレガSFトシテ提出サレテイル点ダロウカ――と書いたとたんにいや違うぞ、もう少し考えてみろと背後からささやく声がする。誰だろうと振り向いてみれば――もうひとりのヘレン*1、ヘレン・マクロイ嬢ではありませんか。

 マクロイもまた60歳近くなってSFを書いた。あえて言わせてもらえば陳腐きわまるSFを。何の因果かそれらは翻訳されて『歌うダイアモンド』という作品集に収められている。しかし、その出来のよくないSFを読んだおかげで、わたしの中でヘレン・マクロイという作家は重い存在となったのだった。

 マクロイにしてもカヴァンにしてもSFプロパーの作家ではない。誰も彼女らにSFを書いてくれと頼んだわけではなかろう。しかし彼女らはSFを書いた。マクロイの場合は60歳を超えて、「ところかわれば」という題のなんとも言えぬ読後感を持つSFを書いた。

 こんな年になって、なおかつ自らを表現する手段としてSF以外の器がないとは――いったいどういう人生だったのか。徹頭徹尾現実と折り合いのつかなかったmisfit、現実不適応者と言ってもとても足らない魂の軌跡には粛然とならざるを得ないではないか。
 

*1:アンナ・カヴァンの本名はヘレン・エミリー・ウッズ