...me semblait (moins) lointain...

消え去ったアルベルチーヌ (光文社古典新訳文庫)

消え去ったアルベルチーヌ (光文社古典新訳文庫)


周知のように、『豊饒の海』最終巻「天人五衰」は、いまわれわれの手元にあるものとはまったく違う結末が当初は構想されていたらしい。澁澤龍彦三島由紀夫おぼえがき』からその創作ノートを孫引きすると、「……本多死なんとして解脱に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。」
そこで想像するのだが、もし仮に『豊饒の海』が、この当初のプラン通りの大団円を迎えた形で刊行されて世の絶賛をひととおり博したあと、作者の死後何十年も経ってから現行ヴァージョンの「天人五衰」の原稿が発見されたとしたら……その驚きはたいへんなものだろう。――今回訳出された『消え去ったアルベルチーヌ』の新ヴァージョンを一読して受けた衝撃を分かってもらうためには、こういった迂遠なたとえ話で表現するほかない。

といっても、従来の訳と今回の新版が、大筋においてそれほどドラスティックに変わっているわけではない。にもかかわらず大変貌をとげたような印象を受けるのは、ひとつには解像度が抜群に高くなった今回の新訳のおかげである(ちくま文庫井上究一郎訳とくらべると、俺はいままで何を読んでいたのだろうとさえ思う)。
しかしそれにもまして、枝葉が落とされたため(たとえばアルベルチーヌのレスビアニズムを報告するエメの手紙、そのエロチックな描写なんか跡形も残っていない!)、いままで埋もれて目立たなかった骨格があらわになったことが大きい。

まず主人公がアルベルチーヌの死を知ったあとで彼女からの手紙を受け取ったときの感慨:

ある人間が単なる瞬間の寄せ集めのなかにしか存在しないというのは、たしかに大きな弱点なのかもしれない。だが同時に、大きな力でもある。彼は記憶の支配下にあるが、ある瞬間の記憶というのは、そのあとに起こったことを何も知らされていないからである。記憶が記録したこの瞬間はまだ続いているし、まだ生きている。その瞬間に姿をあらわした人間とともに生きているのだ。こうした細分化は死んだ女をよみがえらせるだけではなくて、その女の数を増やしていく。心の平安を取り戻すために私が忘れなくてはならないのは、ただひとりのアルベルチーヌではなく、無数のアルベルチーヌである。(p,165)

この「細分化」において想起の連続性は絶たれ、豊かな過去の時の流れは停留し、バラバラのフィルムの一こま一こまみたいになってしまう。まるで「記憶の人フネス」のように。しかしこんな「細分化」は、『失われた時を求めて』の世界自体に罅を入れることにならないのだろうか。そんな危惧さえ抱かされる不吉な一節だ。

さらに、主人公が母に同行して赴いたヴェネツィアの印象を語る一節によって、その危惧はいやましにふくれる。

……私のまえに広がる町はもうヴェネツィアではなかった。町の個性も名前も偽りだらけの虚構に見え、この町を形づくるあまたの石にそれらをあてはめる気力はもうなかった。
 豪華な邸宅も私の目には、ほかと大差ない大理石の単なる部分、単なる量の集積に還元され、水は永遠にして盲目、ヴェネツィア以前からヴェネツィアの外に存在している水、ヴェネツィア統領(ドージェ)もターナーも知らなかった水となって、単に水素と窒素の化合物よしか思われなくなった。…(中略)…あたかも、ブロンドのかつらをつけ、黒い衣服をまとっても、本質においてハムレットでないことがわかってしまう役者のようにと言えばいいだろうか。邸宅も運河もリアルト橋も、こうしてその個性をつくっていた観念の衣を奪い取られて、卑俗な物質的要素に分解されてしまったのである。(pp.215-216)

「観念の衣を奪い取られて」……しかし、『失われた時を求めて』から「観念の衣」が奪い取られたなら、あとに何が残るというのだろう。

そしてこの「消え去ったアルベルチーヌ」は、次のような禍々しい文章で終わる。

私たちが頑固に、そしてそれに引けを取らない誠実さを発揮して信じていることの大部分は、最後の結論にいたるまでそうなのだが、前提に関する最初の思い違いから来ているのである。
                               「消え去ったアルベルチーヌ」了(p.224)

 
こんなところで終わってはいけないと思う。「消え去ったアルベルチーヌ」了、なんてそっけなく書いてほしくない。こんな終わり方は、かの小説のエンディング近くの次のようなせりふを否応なしに思い出させ、はたして「見出された時」につつがなく続いていくのか不安になってしまう。下手をすると「記憶もなければ何もないところ」に行ってしまうのではないだろうかと。

そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか? お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません」