文豪怪談・三島集を巡って1(言霊の巻)

 
人の書いた言葉は、その人が死んだ後も残る。運がよければ千年経とうが残っている。だから、ここにもし言霊というものがあって、それが霊の一種であるならば、まさしく霊の本領を発揮して人の死後もなお生き延びていることになる。
そこで言霊なるものの実在だが、他の国はいざ知らず、少なくとも本邦には、折口信夫ならびに日夏耿之介という豪腕無比のネクロマンサーがいて、いやしくも彼らの著作に親しむほどのものならば、いやもおうもなくその存在を承認せざるを得ないだろう。

常識で考えて、お化けや幽霊は、そこに現実の素材として実在するのではない。従ってお化けや幽霊を扱う作家は、現実の素材やまして思想や社会問題によりかかって作品を書くわけではない。彼が信ずべき素材は言葉だけであり、もし言葉が現実を保証しなければ、それは一篇の興味本位の物語になり、いちばん大切な鬼気もあらわれないから、言葉の現実喚起の力の重さと超現実超自然を喚起する力の重さとは、ほとんど同じことを意味することになる。(本書pp.262-263の内田百輭論より)

この至極まっとうで論理的で「常識で考えて」いる、あえて言えば俗耳にも入りやすい文章を書いたのと同じ人間が、その四年前に「英霊の聲」という大非論理な問題作を書いているというのはちょっと見には矛盾であるけれど、「言霊」ということを考えれば見事に首尾一貫しているのである。
この文章のキーワードは「言葉の現実喚起の力」だ。この「喚起」というのは、どこやらの同人誌の誌名を借りていえばevocation(口寄せ)であり、「英霊の聲」の用語で言えば「神霊の憑(よ)り坐(ま)し」である。存在せざるものが言葉の力によって憑(よ)り坐(ま)すのである。

「小説とは何か」では舞良戸などを例にとって言語表現の自律性、最終完結性ということをしきりに言っている。この自律性というものが曲者で、つきつめて言えばそれは、たとえ人類がすべて死に絶えても言葉あるいは言霊だけは残るという確信に他ならない。それこそはいわゆる霊ではないか。