ジョン・コリアは難しい8(われビールジーを駁論せりの巻)

スペンサー詩集

スペンサー詩集

 
ジョン・コリアが「僕は詩人になります」と宣言して父親を嘆かせていた頃の英文学は、ジョイスやエリオットが気炎をあげまくるそれはそれは大変な時代だった。その期の特徴として偶像破壊癖とならんであげられるのは、他人の作品の自在な流入だ。
たとえば十六世紀の詩人スペンサーが二組の貴族の婚姻を祝して

草地はすべて可愛い蕾で飾られていて
どれもみな乙女らの部屋を装い
その恋人たちの頭飾りにふさわしい、
近づく婚礼の日に備えて
 麗しいテムズよ 静かに流れよ、歌い終わるまで。    (和田勇一他訳)

テムズ川を歌うと、エリオットはそれを受けて

美しのテムズよ、静かに流れよ、わが歌の尽くるまで。
もう河に上には浮いていないあの空瓶もサンドウィチの紙も
絹のハンカチフもボール箱もシガレットの吸殻も
また夏の夜をしのぶ他の証拠品も。あの乙女たちも去ってしまった。
またその男の友達の商業区の重役の息子達ののらくらものの連中も去ってしまった。 (西脇順三郎訳)

とテムズ河畔で男友達となにやら怪しからぬ振る舞いをするタイピストたちを歌いあげる。

こういう風潮に首まで浸かったコリアが、それを作品に反映させないはずがない。麗しのテムズの骨法をそのまま受け継いだのが"Thus I refute Beelzy(だから、ビールジーなんていないんだ)"で、この変わったタイトルは、ボズウェル『ジョンソン博士伝』が元ねたになっている。

我々は教会を出てしばらくの間、物質なるものはこの世に存在せず、宇宙の万象はすべて観念に過ぎないと立証するバークリー主教の巧妙な詭弁を話題にした。彼の教説が間違いであることを我々は心に納得しうるけれど、その論駁は不可能だ、と私は語った。この時のジョンソンの俊敏な反応は今後決して忘れないだろう。彼は力一杯足で大きな石を蹴り上げてその弾みでよろけながら、「僕はこうやってその説を論駁する(I refute it thus)」と叫んだ。(中野好之訳)

オッサンそれ駁論ちゃうやん、論になってないやん、というような突っ込みはさておき、ここからコリアがあの短篇のタイトルを発想したのは、BeelzyとBerkleyの音の響き合いから見ても、たぶん間違いないだろう。むろんBeelzyは直接には「蝿の王」ベルゼブブ(Beelzebub)の愛称であろうけれども。

しかし肝心の点はそこにはない。スペンサー〜エリオットでテムズ川にあたるものはここでは足首である。議論の決着をつけるのはどちらの挿話でも、「論より証拠」とばかりに登場する足首だ。石を思い切り蹴飛ばしさぞ痛かったであろうジョンソン博士の足首は転調されて、実に意外な形でコリアの作品に登場するのである。
足首よ! 足首よ! 静かに転がれ。わが歌の尽くるまで。