ジョン・コリアは難しい7(引越し魔の巻)

 
コリアと足穂の共通点はいくつかあるが、そのひとつはその風来坊性だ。
足穂の場合は『東京遁走曲』他の自伝的作品が大量にあるためにその足取りはわりと細かいところまで追えるが、コリアは自分のことは作品に直接書かず、いったいどうなっているのかもうひとつよくわからない。コリアの(おそらく唯一の)研究書を書いたベティ・リチャードソンが死の一年前にインタビューを行い色々聞き出しているが果たしてどこまで本当なのか。
まず一九三四年まではロンドン郊外で貧乏生活を送っていたらしい。当時の友人西脇順三郎はこんな風にうたっている。

ヂオンと別れたのは十年前の昼であった
十月僕は大学に行くことになってヂオンは
地獄へ行った……
ヂオンの写真はその後文学雑誌に出た……
毎晩酒場とカフエと伊太利人の中で話した
ヂオンが寝る所はテムズ河の南の不潔な
町の屋根裏であって、電気がないから
ビール瓶の五六本のローソクを花のやうに
つきさして、二人の顔を幾分あかるくした
ビール箱にダンの詩とルイスの絵を入れた……

しかしいよいよ食い詰め、なけなしの財産を整理して三五年にフランスのカシスに移る。マチスデュフィの絵にも描かれた美しい港町である。そしてその年のうちにヒュー・ウォルポールの口利きでハリウッドのシナリオライターに雇われ渡米。象の映画などにかかわったあと、一年少しでまたイギリスに帰る。オクスフォード州ウィルコートからロンドンへ移るあいだに「特別配達便」や「遅すぎた来訪」が書かれたが、ふたたび金に窮するかなにかして、翌三八年にはふたたびカシスへ(ここで「宵待草」の初稿ができる)。その翌年にはパリで少し滞在したあとマンハッタンに。「ナツメグの味」「猛禽」などはこの間に書かれた。
一九三九年、アイルランド旅行中に立ち寄った書店で、コリアはサキの短篇をいくつか立ち読みする。本人によればそれまでサキは読んだことはなかったという。「こんなものなら俺にも書けそうだ」と思ってできたのが「だから、ビールジーなんていないんだ」だそうだ。
このあとコリアはアメリカ各地を転々としたあげく、四二年にカリフォルニアに落ち着き十年ほど脚本書きに専念する。仏訳本『ナツメグの味』の序文で翻訳者のマーク・シャドゥルネが会見記を書いているがすごく優雅な生活を送っていたらしい。この頃には新作はほとんど書いていないが、既発表短編集の刊行が相次ぎ、短篇小説の名手としてのコリアの名はこのころ固まる。
五三年にはメキシコに移り現地の女性と結婚、五五年に香水の産地として知られるコート・ダジュールの小村グラースに居を構える。グラースには二十年以上、死の一年前までいた。ここではミルトン『失楽園』の映画化をもくろみそのシナリオ書きに専念。たま〜に「プレイボーイ」などに新作を発表する。映画化は結局挫折し脚本だけが出版されるも、アップダイクその他の書評家からさんざんな酷評をあびる
メキシコに行った後一時的に消息が絶えたらしく死亡説が流れたことがある。八十年代以前のアンソロジーなど見ると、ときどき没年が一九五九となっているが、あやうくアンブローズ・ビアスの轍を踏むところだったのかもしれない。