サムワンをもとめて

青年のための読書クラブ

青年のための読書クラブ

 
ダンテが地獄・煉獄・天国からなる一大架空伽藍をつくりげたのは、もとはといえば二十四歳で亡くなったベアトリーチェのせいだった。ボルヘスは言う。「ベアトリーチェに死なれ、ベアトリーチェを永久に失ってしまったダンテは、虚構の世界で彼女にめぐり合い、悲しみを和らげようととした」
ここにもうひとり、二十世紀初頭のパリに、最愛の女性をやはり同じくらいの年でなくしたミシェールという青年がいた。そしてやはり彼も壮大な虚構の伽藍をつくることになる。ただダンテのように紙のうえにではなく、東洋の島国という現実のうえで。
しかしこのような動機でつくられたものは、どのような心理的必然によるものかは分からないけれども、何から何かまで夢の素材で(別の言葉でいえば純然たる願望充足で)つくるというわけにはいかないようだ。地獄のとば口でダンテは、ホメロスルキアノスなどなどのいにしえの文豪に出会う。運悪くキリストより前に生をうけたばっかりに、あわれ地獄につきおとされてしまったのだった(ダンテの案内人たるウェルギリウスにしたって同じ理由で地獄におとされた仲間だ)。そこでかれらが何をしているかというと、地獄では書くことを禁じられているがゆえに、文学談義で無窮の時間をつぶしている。

彼らははじまって間もないダンテの夢にあらわれる形象であって、夢を見ている人からいまだに独立していない。文学について、いつ果てることもなく語り合っている。(他にどんなことができただろうか?)。『イーリアス』や『内乱賦』を読んだり、『神曲』を執筆したりしている。自分の芸術の実践においては、冴えた腕前をみせる。にもかかわらず彼らが地獄にいるのは、ベアトリーチェに忘れられているからなのだ。(「ボルヘスの『神曲』講義」)

ベアトリーチェに忘れられているからなのだ」……しかしベアトリーチェはもう死んでいるのだから、彼女が彼らのことを思い出してくれることはもうない。絶対にない。――えっ、天国篇があるじゃないかって? しかしそれは大いなる誤解だ。天国篇を最後まで読めばわかるが、ダンテはふたたびベアトリーチェに見捨てられる。そもそも天国篇に出てくるベアトリーチェは、本物のベアトリーチェがもう死んでいる以上、偽のベアトリーチェ、悪しき反復たるベアトリーチェたることを免れないではないか。
さて、聖マリアナ学園においてもダンテの地獄とおなじく「文学談義で無窮の時間をつぶしている」読書クラブなるものが存在する。もし若くしてなくなったマリアナの夢を実現するつもりなら、こんなものはある必要はなかった。まるでこれは現実にあった「哲学的福音南瓜」が、せっかく東洋の島国に築き上げた夢のなかに侵入したような按配ではないか。
そしてまた、ちょうど天国篇にでてくる偽のベアトリーチェのように、パリのマリアナそのままに、おのれの意思をひたむきにつらぬこうとする偽のマリアナも、このミシェールの架空伽藍のなかでつぎつぎにあらわれる。しかし唯一のマリアナ、現実のサムワンはパリですでに亡くなっている以上、東洋の島国の偽マリアナたちはただ何かを反復するしかない。あるいは「シラノ・ド・ベルジュラック」を、あるいは「紅はこべ」を、あるいは「緋文字」を。そして夢に終わりがあるように、聖マリアナ学園もちょうど百年でその歴史を閉じるのだった。

ああいい小説を読んだ!