失われた音

ゴーレム

ゴーレム

 
グスタフ・マイリンクの「ゴーレム」の中に、こんな文章がある。
"Von irgendwo aus einer fernen Wohnung klangen leise, verlorene Töne eines Harmoniums in die Abendstille hinaus."
問題はこの"verlorene Töne"だ。直訳すると「失われた音」だが、「失われた音」では意味が通らない。
今村孝氏の訳では、これが「さまようような(音)」と訳されている。」(1973年4月25日発行の初版による。後の版では改訳されているかもしれない)
「日暮れの静寂のなかに、どこか遠くの家から、かすかなさまようようなオルガンの音が聞こえていた」
「さまようようなオルガンの音」……どうも分かったような分からないような表現である。

Denise Meunierの仏訳だと上の文章はこうなっている。
"D'une maison éloigneé, um harmonium égrenait doucement des notes qui se perdait dans le silence du soir"
(直訳: 遠くの家から、微かなハーモニウムの音がひとつひとつ鳴っては夕暮れの静けさのうちに消えていった)
この仏訳はうまい訳しかただけど、たぶん原意をきちんと伝えていない。ムードに逃げているような気がする。

この"verlorene Töne"=「失われた音」は、マイリンクの別の作品「蝋人形館」にも出てくる。
Es surrte der Apparat. Dann stiegen drei verlorene Töne auf. Einen Augenblick später klimperte laut durchs Zimmer das Lied.
いま本が出てこないが、:種村季弘編「ドイツ幻想小説傑作集」所収の小岸昭氏訳では、verlorene Töneの部分は「調子はずれの音」となっていたように思う。
この部分はMaurice Raratyの英訳では"The machine ground into motion. Three odd notes sounded, and a moment later the tune blaired across the room."となっている。"odd notes" でつか……どうも苦し紛れという感じがするねえ。さて本当はどういう意味なんだろう。

この「失われた音」の謎が、1月1日付けの愛・蔵太の少し調べて書く日記を見てガバッと氷解したのだから、ヒントはどこに転がっているか分からない。要するに、このverlorenには、英語のlost同様、「正しい道をはずした」「迷った」というニュアンスがあるのだ。いま売ってる独和のなかで一番収録語数の多い小学館の大独和にはぴったりした訳語はないが、木村相良には「道に迷った・迷い込んだ」とある。だから今村孝・小岸昭両氏ともこの語の正しい意味を捉えていたわけだ。