幻視の恩寵

ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡 (岩波文庫)

ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡 (岩波文庫)

 
アーサー・マッケンはウェールズの片田舎で牧神パーンの跳梁するのをまざまざと見たという。中井英夫も「蒼白者の行進」のなかで渋谷の雑踏にギリシャ神話の神々を透視した。
悲惨な現実のただなかにあってさえ、なおも牧神パーンが見えることは大いなる恩寵だ。ボッカチオもまごうことなきこの種の人たちの一員だった。
政治的混迷を深めるイタリア半島の情勢を、当時四十歳のボッカチオはペトラルカにあてた書簡のなかでこんな風に書く。
「ああ!不可解な運命の糸は、われらの羊飼い娘アマリリス〔イタリア〕の美しさを、どこに奪い取っていったのでしょうか。あの貞潔、かっての栄誉を。あの力、威厳ある優美、森の統治を。彼女はいま夫たち〔教皇と皇帝〕にも忘れられてしまったのです! 村々の祭壇や祭祀のすべてをつかさどる牧神パーン〔教皇〕は、彼女をすててアルプスのかなたの森〔アヴィニョン〕に住み、異邦人になりさがって古来の名誉を忘れてしまい、あとはどうなろうと無頓着です。花嫁に仕える身の牧童ダフニス〔皇帝〕もまた……(本書p.83)」
これは単なる美辞麗句、レトリックのためのレトリックではない。上の引用は、ボッカチオらの故国フィレンツェと敵対していたミラノの僭主ヴィスコンティ家の庇護を受けたペトラルカへの弾劾文なのだ。敬愛する師の裏切り(とボッカチオには思えたもの)と二重写しになる異教神話の世界……。

このボッカチオとペトラルカの往復書簡に現れる二人の生涯にわたる友情は、典型的なオプティミストペシミストのそれだ。ボッカチオは、楽天主義者特有の無神経さでときに師ペトラルカを激しく攻撃する。ペトラルカは悲観主義者特有の繊細さで、その攻撃を優しく受け止める。――本の中でも実生活でも、同じようなシーンを何度見てきたことだろう。たとえばミステリの世界で言えば、乱歩と正史のやはり生涯にわたる友情は、同じくペシミストオプティミストとのうるわしい交感であるように思われる。
人生をよりリアルに冷徹に見ているという点では、あるいはペシミストに軍配があがるのかもしれない。しかし、「人生への信頼を失わないこと」、この一点においておそらく桂冠はオプティミストの上にこそ輝く。そしておそらく、幻視はそのためオプティミストに与えられた唯一無二の特権であり恩寵なのだ。