かみのけ座妄想

 
せっかくの『アムネジア』スレは>>1のせいもあって大荒れだ。この作品の信者がみんながみんな異常とまではもちろん言わないけれど、祭壇の前でむやみに香を焚いてばかり、という気はほんの少ししないでもない。よってここでちょっとばかり自分の読みを記してみる。

心身問題というものがある。心(自我)は脳内でおこる物理的・化学的作用に帰着できるものなのか。言葉を代えて言えば心を持つロボットが果たして作れるものなのか。これはレムの関心とも重なるテーマだ。そしてレムの答えはどうやらイエスらしい。

それじゃお前はどう思うのかと言われると、もちろんレム派である。哲学的センスに欠けているせいもあって、哲学者の人の議論は、そもそもスタート時点の問題設定自体をよく理解できてないと思う。だいいち「比類のない私」というような唯我論じみた発想にはほとんど共感できない。「オレがオレが」と自己を主張することが苦手な私などは、たとえばCTスキャンを受けた結果「いやー、頭蓋骨の中見てもマザーボードとかメモリみたいなものしか入ってませんでしたよ〜」とか言われても「そうか。そうかもな」とあっさり納得してしまいそうな気さえする。これはもしかしたらレムの本の読みすぎなのだろうか(なにしろコミケでレム追悼本を作ると決めて以来、主要作品は一通り読み直したから)。

それはともかく、では心とは意識とは何なのか、自分が自分であるという何のためらいもない確信はどこからくるのか、というと、私見ではこれは一種の錯覚であろうと思う。錯覚であるからもちろん実体はない。したがって脳の研究が発達しても心の問題は一ミリも解かれない、という断言はその限りにおいて正しいと思う。

で、ここからやっと『アムネジア』の話に入るのだが(もちろんいままでの話も『アムネジア』に全然無関係というわけではない)、かみのけ座という星座が作中で重要な小道具として出てくる。

かみのけ座という星座が本当にあるのかどうかは知らない。しかしそれはこの作品を読む上で本質的な問題ではないと思う。なぜなら、大熊座であろうと射手座であろうと、星座というものはすべて実体としては存在しないから。単なる錯覚であるから。つまり、それはたまたま地球というローカルな一地点から見た場合にだけ熊とか射手に見えるだけで、星座を構成する星のひとつひとつは、実際には気の遠くなるほど互いに離れているのだ。

だから、あえて地球という立場に視点を固定せず、もっと普遍的観点から宇宙を研究した場合、どんなに研究が進んでも、それは星座に関する知見を一ミリも前進させはしないだろう(あたりまえのことだが)。そして前段で述べたように、意識もこの種の「錯覚」なのではないか、それをシンボライズしているのが作中の「かみのけ座」ではないだろうか、というのが今のところの仮説だが、当たっているかどうかは全然自信がない。ちなみに稲垣足穂がどこかで同じ趣旨のことをもっと洒落た言い方で言っていた、と思う(A〜Zのうち私はEとKとQであなたはBとHとなんとか、というような感じで)