ミステリは『枯草熱』でおしまいか

天の声・枯草熱 (スタニスワフ・レム コレクション)
 
殊能将之の刺激的な断言*1を読んでちょっと考えてみた。
 
おしまいということはないように思う。例えばランダムネスの濃度自体がプロットに絡む『奇偶 (講談社ノベルス)』、あるいはランダムネスの影響が因果律にまで及ぶ『ウロボロスの偽書 (講談社ノベルス)』は『枯草熱』と問題意識を共有し、さらにその先を行っている。

しかしこれらの作品はもはやミステリではないではないかと言われると反駁はしづらい。その意味で『枯草熱』は究極の(おしまいの)ミステリというよりは、より正確に言うと、ミステリという一箇の閉鎖宇宙からの出口(のうちのひとつ)を示した作品とは言えまいか。ではその出口の外には何があるのか、というと、もちろん「広義のミステリ」である。おお膨張宇宙!
 
『枯草熱』の終盤に述べられている考えはミステリ的観点から言えば二つに集約されよう。その一、いくら謎が難解でも、あるいはいくら探偵が凡庸でも、きわめて多数の探偵にきわめて多数の推理をさせれば、いつかは真相にあたる。その二、犯人が頭を絞って計画した完全犯罪といえど、それは大局的に見れば幾多の偶発的要因が重なり合って実現したひとつの事象にすぎない。そしてこの二つは同じことを探偵と犯人の側から言っているにすぎない。

これらはそれぞれ後のミステリが進む方向(のうちのいくつか)を決定付けているように思う。その一の方は多重のどんでん返し、『毒入りチョコレート』型の作風に。またその二の方は、「犯人のトリック」に重点を置かない、都筑道夫の言う意味での「論理のアクロバット」型の作風に、あるいは完全犯罪計画の極限値は無計画犯罪となるという、いわゆる「後期クイーン」型の作風に。
 
『枯草熱』とはまったく関係ないがカーラ教授の新作は「BLキター」なんだそうな。読みたいような読みたくないような。
 

*1:情報元:CAPRICE CENTER