赤い鳥の囀り

 
ミステリマガジン今月号に有栖川有栖氏が「赤い鳥の囀り」と題するエッセイを寄稿している。「容疑者Xの献身」を巡る論議の一環をなすもので、そのなかで有栖川氏は、二階堂黎人の「容疑者X」論には納得できないものの、その「評論家への不信」という心情には共感できるものがあると書いている。

「評論栄えには、褒め殺しという落とし穴もあるし、読者はしばしば移り気だ。同業者の一人として『腰を据えて、これからも自分にしか書けないと信じるものを書いていきましょう。それができるだけで作家は満ち足りている』と言いたい。」(ミステリマガジンp.60より引用)

それにつけて思い出されるのは最近読んだ紀田順一郎の上掲書だ。面白いところをちょっと拾ってみよう(以下強調太字は引用者)

…そんな暇がちょっとでもあるんなら、もっと清張や鮎哲や高木彬光を叩け!/打て!/切れ!/岩を打つモーゼの如く(ボードレール)/とまあ、似たようなことを言われるであろう。だがしかし、この日本推理三悪に何を言っても、もう始まらないのである。蛆虫に食い荒らされて凍てついた、古い骸骨ではないか! 血祭りにあげようにも、もはや我らに捧げるべき血の一滴たりともない。(本書p.238 出典SRマンスリーNo.27 '60・1)
 
四月十四日 Sのミステリ如是我聞。またもや反う゛ぁんだいん論なり。かかるよたを並べる暇あらば、おのれ芸術の向上に努力すべきところ、しょうこりもなく汝迷言を半年にもわたりて連載す。不遜というべし。(本書p.314 出典SRマンスリーNo.61 '63・4 ちなみにSこと佐野洋の「ミステリ如是我聞」は現在講談社文庫「推理日記Ⅰ」で読める。)
 
セイヤーズというお婆さんは詩人などには縁遠い、凡俗の饒舌家だったに違いない。きりっと引き締まった、すぐれた感覚の作家なら、こんなものは百ページですむ。それをダラリンダラリン三百六十ページにもおよんでいる。こんな冗長で、鈍感で、内容に乏しい文章は、さすがに日本でも見られません。(本書p.119 出典SRマンスリーNo.9 '58・7の「ナイン・テイラーズ」評 )

 
日本推理三悪……角川文庫で続々刊行される「鮎哲」・高木彬光・佐野洋などの旧作を随喜の涙を流しつつ読んだ我々世代との評価の違いに唖然とする。しかしこれらは紀田氏個人の意見というよりはむしろ当時のマニアの最大公約数的な心情だったのだろうと思う。

ことほどさように己の道を行く作家はマンネリとか向上心がないとか「古い骸骨」とか批判されやすい。

同時代の評価なんて案外あてにならないものだ。作家諸氏には読者のひとりとして私も有栖川氏の尻馬に乗って、「これからも自分にしか書けないと信じるものを書き続けてください」と僭越ながらお願いしたいと思う。