浅暮マジック健在なり

 
釣りエッセイだとて侮るなかれ。浅暮マジック健在なり。しかしその魅力をどう説明すればいいのか。

まず枠が導入される。新婚旅行の前に作者は奥方に約束する。「結婚後は年に一度、必ず海外旅行に連れて行く。[…]一回一国で二都市程度を訪問し、のんびりと休暇を楽しむというのはどうか。計画も手配もこちらがやる」……しかし一見いかにも愛情に溢れたこの提案には裏があった。すなわち本書のテーマであるところの釣りだ。

奥方をうまく騙すためには、行き先はアラスカの渓流とかアマゾンの奥地とか、開高健が行くようなところであってはならない。あくまでパリとかフィレンツェとかの観光名所に限られる。しかしもちろん釣りもできなくてはならない。それも作者がこだわっていると思しき鱒釣りが。

この縛り、作者自らが設定した不思議なシチュエーションのなかで、なんともいえぬ洒落たユーモアがかもし出される。こういうのはヨーロッパの作家ならいざしらず、日本ではグレさんの独壇場であろう。日本風に考えれば、そもそもなぜ結婚後何年たっても奥方を騙し続けなければならないのかが理解できないが、こういう微妙な日常の異化が浅暮ワールドなのだ。

こういう人為的な枠の中で、最初の年は新婚旅行でフランスに、そして二年目はイギリス、三年目はイタリアと約束は律儀に履行される。休暇と休暇の間の日常などもちろんまったく書かれない*1から、こういう風に毎年の外国旅行ばかりがトランプの絵札みたいに整然と反復して並べられると、もうそこはすでにして異界である。こういうさりげなく凝った構成を前にすると、これがフィクションなのかノンフィクションなのかも判然としなくなってくるが、まあそんなことはどうでもいいやね。
 

*1:それどころか、旅行中の奥方の様子さえめったに描写されない。作者の頭の中には釣りしかないのか