レム、「O嬢の物語」を語る

 
 理論的な話がえんえん続いたかと思うと、突如SF作家総まくり罵倒大会がはじまる「SFと未来学」も不思議な本だったが、「偶然の哲学」も当方の知識不足および語学力不足のせいで、その読解は一筋縄ではいかない。

 しかし文学の目利きとしてのレムの端倪すべからざる洞察力が随所に光っている。以下に抜粋するのは「O嬢の物語」を論じた部分である。文学作品における矛盾には三段階あるとして、論理的矛盾、意味論的矛盾に継ぐ第三の矛盾を語っている場面である。
 

 最後に、物語上の矛盾のなかでもっとも弱いものとして、伝統的には相容れないものとされた詩法を結びつけることから生ずるものがあって、これは今日では盛んに活用されている。ここで代表的な位置を占めるのがポーリーヌ・レアージュの「O嬢の物語」である。これはサドの作品と好一対をなす特異な小説であるが、これには、ただ単に悪名高い侯爵の作品にみられるサディズムを補完するマゾヒズム的半面というより以上のものがある。すなわちこの作品は大いなる愛の物語であり、そしてそれはヒロインが恋人からこうむる凄まじい陵辱によりますます堅固になる愛情なのである。サドの作品では、リベルタン主義に改宗させられた女たち――たとえば「閨房哲学」に登場する無垢の少女たち――は放蕩に専念するようになると気高い感情をすべて失ってしまう。それに対してレアージュのヒロインは、恋人が彼女を恥ずべき娼婦としようとすればするほど、ますます彼を愛する(「欲望する」ではない)ようになる。[…中略…] 注目すべきことに、この小説には猥褻なシーンがあまりない。ストーリーの進行上それが不可欠な場合にも、描写ではなく指摘がされるのみである。そして、この小説は、われわれが「気高さ」と呼ぶ感情は、われわれがこれ以上ない屈辱と見なすものから生まれるのではないかという可能性を説得力をもって語りかける。それから、この小説はもっとも月並みな意味で反写実主義的である。O嬢ほど絶え間なく虐待される娘は、生傷だらけになろうから、とうていステファン卿を魅する対象とはならないだろう。なにしろ卿は倒錯的な交わりを行うに先立ち、審美的な観察をおこなう(ここにもさらなる詩法の矛盾がある!)ほどの卓越したダンディなのであるから。炎の行をおこなう托鉢僧(ファキール)さながらに、ヒロインが虐待に無傷のままでいるという絶え間ない奇跡がもしなければ、この小説は閨房的雰囲気から逸脱して俘虜収容所の雰囲気を帯びるようになり、そして遺憾ながら現実にあったメンゲレ博士*1の治療室の悪夢を思わせるものになるだろう。[……]

 

*1:アウシュヴィッツ強制収容所で残酷な人体実験を行ったといわれる人物