- 作者: シオドア・スタージョン,若島正
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2003/07/11
- メディア: 単行本
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「二人称で登場人物に呼びかける語り手」という点で、「デス博士の島その他の物語 (未来の文学)」は、ほとんど不可避的に「海を失った男」を思い起こさせる*1。「海を失った男」でも二人称は三位一体を現出させる手法として用いられているからだ。三位一体――つまり、与圧服姿で横たわる男と、ヘリコプターを持つ少年と、物語の語り手である。一人称と三人称の間を自由に行き来できる二人称という手法を使ってはじめて、三位一体は無理なく実現し、そして物語は大きな効果をあげることができたのだった。それに加えて、「デス博士〜」と「海を〜」とのもう一つの共通点として、現実に幻想をスーパーインポーズする手段として二人称が絶妙に機能しているのも見逃せない。
とつい書いてしまったが、「デス博士〜」において、デス博士=タッキー少年=語り手の三位一体は本当に成り立っているのだろうか。デス博士が少年の夢想の産物という意味で両者の同一性はいいとしても、残る語り手はどうなのか。柳下氏の解説にある「語り手=成長したタッキー少年」説をとれば三位一体は実現するが、この説はどの程度根拠があるのか。
たぶん唯一の根拠は語り手がタッキーの母親を、「きみのママ」でなく「ママ」と呼んでいる点にしかないと思う。あとは傍証になってしまうが、これほどタッキーのことを知ってる人間が本人以外にいるのかというのもある。ともかくここでは「語り手=タッキー少年」説を採りたい。
その上で、あえて「デス博士〜」を「海を失った男」の文脈に沿って読むと、「デス博士〜」でタッキーに呼びかける語り手(=大人になったタッキーと仮定)もまた、まさに臨終状態にあって、いまわの際に自分の少年時代を回想しているのではないかという妄想も湧いてくる。もしそうであったならば、最後のデス博士の言葉は一段と痛切な響きとなって心に迫るではないか。
もちろん根拠を持たぬ妄想ではあるが、この妄想を採用すれば「デス博士〜」から「死の島の博士」にいたる通路が見えてくる。本に仕込んだディケンズは孤児の物語であって、かつ主人公の分身ともいう存在だからだ。