デス博士メモ(1) なぜ感動するのか

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

デス博士の島その他の物語 (未来の文学)

若島メモの真似をして、今日から何日かにわたり「デス博士〜」を巡るメモを書く予定。それもなるべく若林先生が触れていない点に絞るつもり。
ある方のご好意で潜り込めた先週のトークショーで、あまりウルフは評価していないらしい山形浩生氏は「世界が閉じていて、ネタが分ってしまうとそれでお終いの話なので、わざと情報を与えないで曖昧にしている」と言い、それに対して柳下毅一郎氏は「閉じてない。これは癒しの物語だ」と切り返していた。
果たして閉じているのかいないのか、しかしそれは後まわしにして、まず「なぜ感動するのか」から考えていきたい。この本に収められた中短篇には、細部の意味を考える以前に、一読したあと素朴に「ああいい話だな〜」と思わせるものがある。そしてそれは、柳下氏の言うところの「癒し」とは少し異なる気がする。
ではそれは何であろうかとツラツラ考えてみるに、これらの作の魅力は、「父」の顕現にあるのではないか。それは父親のないタッキー少年のもとにデス博士が現れる「デス博士の島〜」においてもっとも明瞭だが、他の二作も同じく「父なるものの希求」を隠しテーマとして持っている。
デス博士は「未来のイブ」「砂男」「カルパチアの城」などの登場人物と共通する、澁澤龍彦いうところの「恐ろしい父」の一類型であるが、ウルフの独創は、この「恐ろしい父」をタッキー少年の想像世界のもの、あるいは小説中小説というメタレベルの人物と設定した点であろう。そしてまた、タッキー少年に向かって「きみ」と呼びかけ物語を進行させる姿の見えない語り手も、その慈しむようなまなざしによって父を思わせる。このデス博士=タッキー=語り手の関係からは「三位一体」という言葉が頭をよぎる。
そしてその観点から「アメリカの七夜」の隠れテーマも同時に見えよう。いうまでもなく「母なるものからの逃亡」である。この「アメリカの七夜」は、日記の所だけ読めば、山形氏のいう「閉じている」という評価は当たっている。しかしその枠の外で主人公ナダンが失踪しており、ここでこの物語は決定的に開かれている。うるさい母親からの脱出。いくつものトラップが仕掛けられた一週間分の日記は、ナダンが母に向けた呪い(=つまりすべてが虚構)であり、いわばあの伝説の大イタチ、スレドニ・ヴァシュタールの役目を果たしているのではないか。そう考えてはじめて日記の不自然なところ(たとえば、なぜ意味もなく麻薬入りの卵菓子など食べるのか)も腑に落ちるのではなかろうか。

最後になったが「デス博士……」の伊藤典夫の翻訳は素晴らしい。この人に頼むと完成するまでに数十年を要するという噂もあるが、もって瞑すべきであろう。