トインビー対オルテガ

 
 京王線の中吊り広告で池田大作と談笑するトインビーの写真を見た。――ああそう言えばそういう人もいたんだった。

 トインビーは今ではほとんど忘れられた感のある歴史家だが、かつて――といってもそんなに昔のことではない――三十年くらい前には、その『歴史の研究』は中央公論社の「世界の名著」シリーズにも収められ、また社会思想社の現代教養文庫からもも縮約判全五巻が出ていた。実際、この『歴史の研究』が出た当時は相当なインパクトがあったらしく、クルツィウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』(1948)の中では、序文でその試みが顕彰されたあと、本文でもそこここに引き合いに出されている。もちろん肯定的に。

 ところがオルテガ著作集第七巻『世界史の一解釈』は徹底したトインビー批判の書だ。このスペインの特異な哲学者の邦訳された著作の中では、(哲学的な深さはさておき)読んで単純に面白いという点ではこれがベストであろうと思う。偉い人がボコボコに批判されるのを読むのは何と楽しいことか。

 もちろん本書の面白さはそれにつきるものではない。前半は古代ローマの初期形態から、その(大空位時代と呼ばれる)衰退に至るまでの、臨場感あり精彩にとむ精神史的考察が素晴らしい。それから、この本は1948年になされた全十二回の講義の筆記録がもとになっているのだが、オルテガの話はひっきりなしに脱線する*1。それはかの『脱線の箱』に入っているバートンやアーカートをちょっと連想させるほどだ。あるいは鷲巣繁男の『戯論』を。分量にして三分の一くらいは脱線ではないだろうか。この講義録はオルテガの死後五年目に本になったのだが、もし生前に出ていたら、そういった脱線はあちこち刈り込まれたのではあるまいか。その意味では遺稿として出たことは幸いだったのかもしれない。一見脱線と見えたものが、意外な所から本論に流れ込んでいく推理小説的驚きも味わえることだし。

 オルテガがトインビーを批判する理由の一つに、あらゆる文明を同列にあつかうトインビーの雑駁さがある。オルテガは本書でエーゲ文明をギリシャ文明の親文明としたり、ローマ文明の盛衰をあらゆる文明のモデルとしたりするトインビー説を執拗に叩く。オルテガは好きな思想家だが、惜しいかな、イギリスのお家芸であるアマチュアリズムに理解ある人ではないのだ。たぶん。

 そして、そういった批判のさらにもう一つ裏には、(これは純然たる想像だが)、「そう味噌も糞も一緒にされてはタマラン」というオルテガ一流のエリート主義、あるいは貴族主義があるのではあるのではないか。つまりオルテガのトインビーに対する嫌悪は、『倫理学ノート*2』における清水幾太郎の、ヴィトゲンシュタインなどへの嫌悪とそう遠く隔たっていないのではないだろうか。
 

*1:反ダーウィン主義者のオルテガは、「猿は人類より後に発生した」とか「人類の誕生は何らかのウイルスによる病気感染によって内省能力が備わったことによるのではないか」とか色々面白いことを言っている。冗談なのかどうかよく分からない。

*2:ある意味名著だが、この本の「言語ゲーム」理解は恐らくまったくの誤解であると思う。