独身者の機械

雪が止まない。今日はAin Soph/KBBのライブに行くべきか、ですぺらに行くべきか、それとも家でおとなしくしてるべきだろうか。

 
「どんがらがん」収録短篇のなかでは、やはり「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに*1」が群を抜いて素晴らしいように思う。後出のダヴェンポートの短文でも述べられているように、ストーリーが一つの神話にまで昇華されている。もしミシェル・カルージュがこの作品を知っていたら、『独身者の機械』のなかで取り上げたに違いない。

それ以外の作品は、今では若干古びてしまったものが多いような気がする。「実験的であること」それ自体が無上の価値を持っていた、かっての栄光の輝きは十分まぶしいにしても、どこか脆弱で、「牡蠣」の力強さまでには達していないのだ。

ところで早稲田進省堂に行ったら、また足の踏み場もないほど本が散乱していた。数年前に逝去されたある方の蔵書が処分されたということだ。そのためかどうか分からないが、ディヴィッドソンの傑作集"the Avram Davidson Treasury"も拾うことができた(もっともこれを買ったのは進省堂ではない)。

この本は協力者が豪勢で、短編一篇一篇違う人のイントロダクションがついている。「ナポリ」にはウィリアム・ギブソン、「エステルはどこに」にはケイト・ウィルヘルム、「すべての根っこに宿る力」にはトマス・M・ディッシュという具合だ。いかにデイヴィッドソンが愛されているかが忍ばれる。

そして「牡蠣」のイントロダクションを担当しているのが、ガイ・ダヴェンポートである。この人の小説作品は、当方の英語力の不足のため、何が何だかよく分からないが、エッセイは素晴らしく面白い。このイントロダクションは短いがその好サンプルであるので、無断で全文を訳してしまおう。

この物語は三十年ものあいだ二重の生を生きてきた。それはテキストとしては頻繁にアンソロジーに採られ、アブラムの最も魅力的なベスト作品の一つと讃えられている。同時にそれは都市伝説に紛れ込み、この小説を読んだことはおろかアブラム・デイヴィッドソンの名さえ聞いたことのない人々の間で逸話として語られている。自転車のサナギは安全ピンで幼虫はハンガーとするトンデモ説(crazily plausible concept)を新聞のコラムニストは好んで取り上げる。創作講座で定期的にあらわれる剽窃の中では、独身の若いライターにとってより身近なペーパークリップがサナギ段階となる。かって同僚の一人が、生徒の中に天才が一人いると僕に言い、この物語の歪曲されたヴァージョンをその証拠として見せてくれた。その生徒はアヴラムを読んでないことが判明したが、大学の中でアイデアを拾ったことは白状した。アヴラム自身は、そういったものを見つけるやいなや手紙を新聞や雑誌に送りつけ誤解を正した。

アブラムがこの物語を着想したのは、打ち捨てられた男性用と女性用との二台の自転車を森林公園の道端で見、その背後の繁みから持主たちの怪しげな声を聞いたのがきっかけだった。ところが彼が親しんでいたサミュエル・バトラーの、「機械たちの本」と題された『エレホン』の一章*2が説くところによると、物体の進化速度は有機体のそれより速いのである。というわけでシャーロック・ホームズの「瀕死の探偵」から題名が取られた。そこでは精神錯乱を装ったホームズが、天敵のいない種はあらゆる可能な生物学的領域を覆うよう自然法則によってプログラムされている、とうわごとを言っているからだ。「なぜ大洋の底が牡蠣でできた一枚岩じゃないのか、僕には分からない。あれほど繁殖力が強そうなのに」
 
アヴラムの自転車売りたち、快楽主義者オスカーと知性の人ファードは都会のドン・ジョヴァンニとサミュエル・バトラーだ。二人の結びつきとその間に走る緊張は、H.G.ウェルズのファンタジーにでも出てきそうな感じで、ウェルズがこれを書いたとたらやはりアヴラムと同じように悪魔的な背景低音を作品に導入したかもしれない。しかし、(おそらくキップリングを除いては)全ての作家の中で最も日常に驚異を入り込ませるのが好きなウエルズにしても、アヴラムほど巧みにアメリカの日常を、これほど禍々しい人生の寓話に、機械との負け戦に変貌させることはできなかっただろう。

 
どうです。『序文付き序文集』ISBN:4336042934などに収録されているボルヘスの文章をちょっと思わせるところがありませんか。ダヴェンポートのことはまたチャンスがあれば気合を入れて語ろうと思ってます。
 

*1:しかしやはり「あるいは牡蠣でいっぱいの海」でないとしっくりこない。『失楽園』が『楽園喪失』に変わったような感じか。それにあえて直訳にこだわるなら、「さもなくばあらゆる海は牡蠣で」とでもなるのではないか

*2:この部分は澁澤龍彦『オブジェを求めて』の中に収録されている