キルヒャーの呪縛を逃れて

ニューグローブ世界音楽大事典で「キルヒャー、アタナージウス」を引くと「……(キルヒャーは)すべての音楽論文のなかで最も影響力のあったものの一つで、とりわけバロック時代の注目すべき存在である≪音楽汎論 Musurgia universalis≫の著者として音楽的にも重要な人物である」とある。「テーベス百門の大都」という言葉は、あるいはこの人にこそふさわしいのかもしれない。
本書は、その「音楽汎論」(本書の著者はこれを『普遍的音楽知』と訳している)をソースの一つとして活用した、器楽用語に関する論である。誤解されやすい表題だが、器楽そのものに関する論考ではない。ある音楽が「ソナタ」であるとか「シンフォニア」であるとか、あるいは「トッカータ」とか「ファンタジア」とか「ディヴェルティメント」であるとかいうのは、いったい何によってそう名づけられるものなのか(CDの解説読んでも訳の分からないことしか書いてないし……)。本書の説くところは、そういった「語」から出発して意味を考えていくのは適切ではないのではないかということである。
音楽の何に着目するか、どう体系付けていくかといった過程の中で「ソナタ」その他の用語は揺らぎ変容して行き、修辞学体系を規範とした思弁的なキルヒャーの分類は徐々に現場的なものに塗り替えられる。その過程が本書では、同時代の音楽理論書や教則本を参照することによりダイナミックに描写されている。嬉しいのは学術書には珍しい達意の文章のおかげで、それが臨場感をもって追体験できるところだ。本書は最初キルヒャーの名に魅かれて手に取ったのだが、その他の点でも読んでよかったと思った。
著者の主張は、器楽用語を「語本位」に捕らえるのではなく「事象本位」にとらえたらどうかということである。関口存男の二尺さし論をちょっと思わせるような主張だ。本書の結論部から引用するならば、「当時の理論家や音楽家が、[…]多次元の座標軸上に位置する音楽の性質を表すために最も適切な言葉を「説明描写的に(descriptive)」選択しながら用いていたという事実である。彼らの用語選択は、決して恣意的なものではなく、そこには、それぞれの状況に応じた必然が存在していたのである。それが現代の視点からすると曖昧に見えるのは、当時の用語法が、今日の科学のように、ある体系に沿ってあらかじめ定義された(prescriptive)ものではなかったからである。(p.267)」
この主張を強引に理解するならば、これらの音楽用語は名詞ではなく形容詞として考えろということであろうか。しかしこれは別に十七・八世紀だけの話ではない。音楽という存在そのものの中に、そういったターミノロジーを促す何かがあるのではないだろうか。今の音楽ジャンルを語る言葉にしても「オルタナティブ」とか「ハウス」とか「エレクトロニカ」とか「渋谷系(?)」とか、prescriptiveならぬdescriptiveなものばかりではないか。(いま挙げた例は古かったり噴飯物だったりするかもしれないが勘弁してほしい。何しろここ数年音楽雑誌は全然見てないから。そう言えばRockin' Onではまだ渋松対談とかやってるんだろうか。まさかそんなこともないとは思うけれど……)