三日月を求めて

去年の冬コミで出たPEGANA LOST Vol.11には石野重道の作品が二編復刻されている。稲垣足穂関西学院時代からの友人であり、ともに佐藤春夫門下であった彼の名は、タルホファンには先刻お馴染みであろう。石野の名が出てくるタルホ作品は、二、三には留まらないはずだ。この復刻だけでも今回のPEGANA LOSTは読み応えのあるものにあっているが、それに加えて小野塚力さんの評論「稲垣足穂『黄漠奇聞』と石野重道『廃墟』をめぐって」が掲載されている。
この『廃墟』という作品は、足穂から「バブルクンドの月取り物語」の腹案を聞いた石野が先にそのアイデアで書いてしまったという約二十五枚の散文詩である。足穂はそれを元にして八十枚くらいの「黄漠奇聞」の初稿を書いたのだという。この石野バージョンの「バブルクンド」との比較によって、足穂の本質を炙りだそうとする小野塚力さんの着眼は非常に優れているし、説得力のあるものとなっていると思う。拙豚も驥尾にふして、ちょっと思ったことを書いてみようと思う。
石野バージョンが足穂バージョンと大きく異なるのは、前者では、割と簡単に三日月が手に入ってしまうところだ。「王は、馬の背に鐙を踏んで立ちのびつつ片手に槍を高く 高く差し上げて――、三日月をとりはづした――。」(PEGANA LOST p.99)……この、たった一センテンスで王は三日月を手に入れてしまうのである。ほとんど未来派的なナンセンスの世界である。
一方足穂バージョンでは、三日月を求める王の狂乱がしつこい位に書きこまれている。それはまるで欲しいものが手に入らず泣き喚く駄々っ子のようだ。作家の処女作にはその作家の全てがあらわれているというが、この準処女作の駄々っ子ぶり――絶対に手に入らない何物かを必死で求める足穂――は、その後の彼の作品からは影を潜めてしまうが、その奥底には依然として潜んでいたものではなかろうか。後の足穂は、自作を「おかずを与えられなかった者の文学」と規定し、オカズ派の攻撃に転ずるようになるのだが……
PEGANA LOST Vol.11には他に、第一次大戦従軍中の思い出を語る稲垣博さん訳の自伝抜粋とか、マニアックきわまるうしとらさんの「ダンセイニ初版本の世界」、やおちゅーさんの「魔女の森」の翻訳、未谷おとさんの論考「英語学習用テキストとして用いられたダンセイニ作品」などが収録されている。この最後の論考は、戦前のダンセイニ受容の一面をうかがわせる興味深いエッセイであった。