非セカイ系「せかい」

ブルースカイ (ハヤカワ文庫 JA)

ブルースカイ (ハヤカワ文庫 JA)

きょう神保町に行ったら、「日本箱庭療法学会第19回大会」というプラカードを持った人があちこちに立っていた。明大でなにやら怪しげな学会があるらしい。奇遇にもそこで買ったこの本でも三つの箱庭が語られていた。
本書の第一部は「第一の箱庭」と題されて十七世紀のドイツが語られ、第二部は「第二の箱庭」と題され近未来のシンガポールが語られる。なぜドイツなりシンガポールなりが「箱庭」なのか? というと、高校三年の主人公もその一人であるところの「少女」がそこに属していないからではないか――十七世紀ドイツでは、女の子は少女を飛び越して一足飛びに大人の女になり、近未来シンガポールでは少女は「とうの昔に絶滅した種族」となっている。
しかしこの本の帯には「三つの箱庭の物語」とあり、裏表紙にも「3つの箱庭と3つの青空、そして少女についての物語」とある。すると帯や裏表紙が嘘をついていない限りもう一つ箱庭があるはずだ。これはサンリオSF文庫なんかじゃなくてハヤカワ文庫JAであるからして、あまりデタラメを裏表紙に書くことはないだろうと思う。だからこの本には三つ目の箱庭があることになって、そうだとするとそれは第三部の舞台である2007年の鹿児島でしかありえない。そして事実、2007年の鹿児島でも、主人公は、「少女」という種族であるがゆえに身の置き所がなく、それは十七世紀のドイツや近未来シンガポールとあまり変わらない。ただ一つ異なるのは、そこでは主人公は「せかい」と繋がる方法を持っていることだ。

そこは不思議な場所だ。
携帯を使ってるあいだだけ、あたしたちは”繋がってる”のだ。
あの場所(システム)と。
それがなんて名前のなんのための場所なのかは知らない。それを知ってるのはきっと神さまだけだ。この原始的な手のひらサイズのおもちゃみたいなモンで、あたしたちはそこにそっと繋がってる。大人は、知らない。
知らなくていい。
いいんだ。          (本書pp.339-340)

その不思議な場所は第三部では「せかい」とも呼ばれ「システム」とも呼ばれる。「わたしはせかいに繋がれる」――これは第三部に頻出するフレーズだが、この「せかい」とは何だろうか。主人公が携帯によって繋がれるものは恋人の浩史であり友達であり父親であり……つまりことごとく現実世界に存在している人々なのに、なぜ繋がるために携帯というツールがわざわざ必要なのか。主人公の言う「せかい」は現実世界と異なるものなのか。
異なるものなのだ。なぜって現実世界は箱庭で、少女のいる場所はないのだから。・・・・・・ここにおいて人はいやおうなしに稲垣足穂の「地球」や「白昼見」を思い出さざるを得ないだろう。この二作は足穂の自伝的小説だが、その中でも主人公は一家の破産やアル中や生来の生活不適応性やらで現実世界に身のおきどころがなくなったあげく、(原因は大いに異なるものの)現実世界は箱庭化し、そしてついに次のような認識に到達する。

彼らが生きているのは、この自分の衷(うち)にであるが、同時に、それらの人々でなくては与えられなかった波動を、或る日、或る時に彼らが与え得た他のあらゆる人々の衷において、でもあるだろう。――ところでそれら総ては一体何に依存しているのか? 彼らに似た、しかしいっそう大いなる意識に属しているものに相違ない。その大いなる意識は、より大いなる意識の中に。それはついに地球の意識に融け入ってしまう……(足穂「地球」のエンディングの一部)

ここでいう「地球の意識」はフェヒナーの哲学の用語だが、足穂のこの語の使い方は、本書の「せかい」とそう遠くないのではなかろうか。そう考えると主人公のネーミングはことさら意味深長に思われてくる。