ヴァテックのこと

「ヴァテック」を読んだときのことはまだ覚えている。国立の道化書房で牧神社版を買い、斜め向かいの音楽喫茶「ジュピター」で一気に読んだのだった。二十年くらい前のことである。今はどちらの店もたぶん存在していないだろう。

驚いたのはその近代性だった。「オトラント」と何という違いだろう。マンフレッド公やイザベラの大時代なキャラに代わってここで活躍するのは、生き生きと血の通った登場人物である。暴君ヴァテックは、いかにも良家のボンボンらしい性格の弱さを持っていて、母親のカラチスには頭が上がらない。こんな現代的なマザコン青年が十八世紀にすでに描かれているとは! そのカラチスがまた息子に輪をかけた残酷女で、サドのジュリエットそこのけに、国中から美女を集めてなぶり殺しにしたりするのだ。うひゃー

で、何年かあとに矢野目単独訳も手に入れた。ところが読んでみるとどうも勝手が違う。微妙に生彩を欠いているような気がするのだ。――さてはかなり生田耕作の補筆が入っているのか? と思って比較してみると、必ずしもそうではない。ほとんどの部分では相違は僅かで、せいぜい単語レベルの修正しかなされていない。

ただし、矢野目訳では全体の1/6くらいの分量――ストーリーで言えば発端に近い部分の、印度人が毬になって転がるところから王が旅に出立する直前までの部分に、思い切ったパラフレーズがなされているのだ。ほとんど原型をとどめないくらいに。つまり、他の翻訳の例で言えば、鷗外が「スキュデリ嬢」をある種超訳して「玉を懐いて罪あり」としたのと同じ操作がなされている。

この序盤のパラフレーズがどうも全体の勢いを殺いでいるのではないか。惜しいことだ。どうして完訳しなかったのだろう? それにしても生田耕作の矢野目文体の模写技術は凄い!