『澁澤さん家(ち)で午後五時にお茶を』 (種村季弘 学研M文庫)  ISBN:4059040061


「時間のパラドックスについて」…これは澁澤龍彦の『思考の紋章学』に収録されている名エッセイであるが、本書『澁澤さん家で…』で描かれた澁澤像は、まさにこの「時間のパラドックス」の体現ではないかと思う。
本書の全体は内容的に三つのパートに分けられる。巻頭の「魔術的睡眠者の肖像」から「絵詞作者の肖像」までがパート1。すなわち澁澤の生前に書かれた文章群である。これらの文章は、変転を遂げ続けるシブサワワールドを、同時代人としての理解と共感を持って描き出したルポルタージュである。
そして87年の唐突な死。そのショックから覚めやらぬうちに書かれたとおぼしき文章群がパート2を構成する。「出棺の辞」から「サロン・庭園・書斎」までがこのパートに相当しよう。
そしてパート3…ここで描かれる澁澤像は、先に述べたように、時間のパラドックスの体現者としての澁澤像である。では、その時間のパラドックスとは何か? それはタイムマシンによる親殺しとかそういうものではなくて、澁澤独特の時間のイメージから生ずるパラドックスである。澁澤は、時間を、万物を腐食させる酸の如きものと見る。

…たしかに石は、いや、鉱物一般は、すでに生命の発生する以前から地球上に存在していたのであり、また将来、かりに地球上の全生命が絶滅したとしても、やはり依然として存在しつづけるに違いないのである。時間はある種の酸のように、そのなかに浸っている生きとし生けるものを腐食し、汚染し、これを徐々に崩壊せしめるにいたるが、この時間という腐食性の酸に対して、一向に弱みを見せないのが石という物質であろう。石はいわば永遠に時間に汚染されない純潔な物質、超時間性あるいは無時間性のシンボルなのだ。(全集第14巻p.312)

それでは、人はいかにして腐食性の時間を逃れ、無時間性を獲得するのであろうか。言い換えれば、パラドックスを体現するのであろうか。「時間のパラドックスについて」にもその言及はあるけれど、ここでは是非パタリヤ・パタタ姫の語る声を聞いてみよう。

やれやれと思っていると、姫のことばがふたたび鞭のように耳を打って、
「ミーコに死をもたらすのが、この真珠よ。でも、それがこんなに美しいのよ。美しい真珠をえらべば、死を避けることはできませぬ。死を避けようとすれば、美しい真珠を手ばなせばなりませぬ。さあ、この二者択一をどうなさいます。むろん、どちらをえらばれようとミーコのご自由ですけれど。」 (高丘親王航海記 pp.228-229)

本書のパート3は、いわばこの真珠、「永遠に時間に汚染されない純潔な物質」と化した澁澤龍彦を巡る論考である。そこにはもはやパート2で見られたセンチメンタリズム、過去へ遡行する思い出話は存在しない。永遠の現在を生きる澁澤が語られている。
最後に書誌的なことを少し。この本は1994年に河出書房新社から出た同題の本の増補版であり、60ページくらいの「澁澤龍彦を読む」と龍子夫人のあとがきが追加されている。また、龍子夫人撮影するところのカバー写真も、一般に公開されるのは今回が初めての筈である。元版を持っている人も、このカコイイ写真のためだけにでも本書は買う価値があるのではなかろうか。