鮎川哲也は、なぜ我々をハッピーにするのか? (その2)

同様のことを中村真一郎も彼の著書『文章読本』のなかで述べている。

文章読本という、いわば文章のお手本集の中に鮎川哲也の文章を入れるというのも相当な見識ではあるが、そこで彼は鮎川は鷗外に学んでいるのではないか、とまで言っているのだ。鮎川が引用されているのはこの本の中の「口語文の完成(二)」という章。そこで鷗外の戯曲のセリフの不自然さが指摘された後、次のような文章が続く:

…これが専ら目を通して伝えられる、小説のなかの会話では、鷗外の発明した文体は、充分に論理的にも美的にも効果を発生させるので、現代の作家たちも、それを学んでいる場合が少くありません。
 
たとえば手近かの実例を、最近の推理小説の一冊から拾ってみますと、ある芸能社の専務が、こういう調子で女秘書に話しています。
 
「よろしい。じつはね、いま新聞に報道されている鈴木重之というピアニストのことなのだが、あの人は犯人ではない。無実なのだ。あの人の生命(いのち)を救うのは、ぼくが偶然にも雨宮氏に電話をかけたという、そのことにかかっているんだ。だから、この刑事さんの質問にはていねいにはっきりと答えて上げなくてはいけないよ」   (鮎川哲也『鍵孔のない扉』)
 
現実にはタレント上りのこうした人物は、もっと軽薄で洒落た言葉遣いをする筈です。例えば人名でも「雨宮氏」という代りに、「アメミヤちゃん」などと云うでしょう。
 
しかし何よりも論理の整合を必要とする推理小説においては、会話もこのように鷗外流に整理されている方が、目的にかなうのでしょう。だからこの作者も話し言葉から出発して、表現が曖昧になるという結果を避けたのでしょう。
(文化出版局版『文章読本』pp.87-88)

さすが中村真一郎だ。自分の知る限り、中村真一郎と鮎川は全く接触がなかったと思うが、それにもかかわらず眼光紙背に徹し、鮎川流「現実改変の意志」とその奥に潜む動機を見抜き、天城一と同じ結論に達しているではないか。

ことほどさように鮎川哲也は読者をハッピーにさせる独特の魅力を持っていて、その文章を下手だというような輩にはどうか天罰でも下ってほしいものであるが、その意味での鮎川の最良の後継者は有栖川有栖氏ではないかと思う。2ちゃんねるなどでは必ずしも受けがよくない『海のある奈良に死す』を密かに愛惜するのも、ひとえにそのマジック・リアリズム的な近畿地方の描写による。