『夜の冒険』 (S.A.ドゥーゼ 小酒井不木訳)


西の古本女王と呼ばれる人の処分本である。毎度のことながら「いったいどこでこんな珍しい本をこんなに安く見つけてくるんだ〜」と感嘆することしきり。
この長編は「スミルノ博士の日記」である種(というか日本でのみ)有名なスウェーデンの作家サミュエル・アウグスト・ドゥーゼの1922年の作品(もっとも1922年は独訳本刊行年で、スウェーデン語原本の刊行年は不明)。巻末の江戸川乱歩の解説によると、日本では大正12年(1923)に、「新青年」に小酒井不木の訳で連載されたそうだ。まったく読書意欲をそそらないタイトルではあるが読んでみると相当面白かった。
血気盛んな25才の彫刻家ゲルハルト・ジッゲルトは怒り心頭に発していた。卑劣な手段で婚約者アダとの仲を引き裂いた従兄レットマン亡き者にせんと、ある土曜の夜、先祖伝来の馬鞭を手にレットマン邸に乗り込んだ。馬鞭は先に鉛球と皮紐が幾重にもついている凄い代物である。
ところがどうしたことか! レットマンは既に死んでいるではないか! なぜかフロックの上に深紅の絹の仮装舞踏会の衣装を着て、書斎の中央に横たわっている。左手に仮装用のデミマスクを握って・・・
で、この殺されたレットマンというのが、いかにも「殺されても仕方がない」と思える嫌な奴なのだ。こういう人が開巻20ページくらいで、いきなり死体となって転がるのは、なかなか痛快な眺めではある。彼のような、とことん嫌な性格の被害者は鮎川哲也の作品によく出てくる(「朱の絶筆」ISBN:4396321201)。そう言えばこの作品、会話も心なしか鮎川調である。例えば次のせりふのわざとらしいくどさや理屈っぽさなど、鬼貫や丹那にアリバイを申し立てる容疑者の口調を彷彿とさせないだろうか。

「うむ、今更後悔しても及ばぬが、実は昨日の朝、奴のところへ電話をかけたのさ。止せばよかったものを、外に道がなかったのでね。始めはいかにも親切そうな口ぶりだったから、ツイ釣り込まれてモロスに誓いをしたことや、内証で高利貸しから金を借りたことを話したんだ。するとたちまち本性をあらわしてね、策略結婚をするくらいなら未来の岳父に頼んでみてはどうだとさも愚弄したような調子で言って、奴もモロスを知っているところから、一つ俺が立ち会って交渉してやるとまで吐かしやがったんだ。無論こうして僕の縁談を破談にしようとするのさ。始末に終えぬ野郎だ! アダもね借金の話になると父親同然で、美しい可愛い女だが、あまり役にも立つまいと思うよ」 (本書p.8)

さて、この小説のキモは何であろうか? それは拙豚の見るところ、後のミステリで多用されることになる「ある趣向」を用いた、最も早い作品であることである。(「スミルノ博士」もそんな小説でしたね。)
その趣向とは何かというと(ネタバレを好まない人は以下を読まない方がいいかも)、真犯人の他に、被害者を殺すために犯行現場に立ち入ったものが複数人いて、そのために推理が混乱するというものである。つまりこの作品は、次のようなよくあるパターンの(たぶん)嚆矢なのだ。

「お前はあの時間に犯行現場にいたろう。これが動かぬ証拠だ。」
「確かにあの時間にそこに行きました。それは認めます。でも僕は殺してない。僕があの部屋に入ったとき、あいつはもう死んでいたんだ!」

この作品の場合、なんと全ての容疑者が死亡時刻の前後に犯行現場に立ち入っている(いかに被害者が皆に嫌われていたかよく分かりますね)。そして彼らは皆が皆、ご丁寧にも、タイブライター、緊縛、千クローネ札、仮装舞踏会の衣装、馬鞭と、なかなかに魅力的な証拠物件を撒き散らしてから部屋を去るのだ。このオブジェの氾濫は、「真鍮の家」ISBN:4150701156「46番目の密室」ISBN:4061858963せないでもない。本格作品としての方法的意識を持って、作者がこういうプロットを組んだのなら大したものだが、おそらく天然じゃないかと思う(そう言えば「スミルノ博士」もきっと天然でああなったのでしょう)。
というのも、この作品、プロットの基本は犯人探しなのだが、中途でいろいろ非パズラー的な要素が筋に混入してくるのだ。実際、中盤ではスパイ小説みたいになるし、また後半のあるエピソードでは乱歩の某マイナー短編のモチーフまでが取り入れられている。「異様な犯行現場」に効果を集中させようと作者がたくらんだのなら、たぶんこんなごった煮的プロットにはならないと思う。その意味で、十戒や二十則以前のミステリの大らかさが天真爛漫に出ている作品ではある。