『時間は実在するか』

マクタガートの時間非実在論を懇切丁寧に解説し、それを論破しようとした本。中島義道の本でこの怪論を知って以来、いったいどう考えれば「時間は存在しない」なんて結論に達することができるのか不思議でたまらず、常に頭の隅にひっかかっていたが、この本でそれは相当程度解消した。著者に感謝する。

そもそも「時間が実在しない」とはどういうことか? もともとが抽象的概念にすぎない「時間」を、存在するとかしないとか言っても仕方なかろう、という気もするが、マクタガートの言わんとしているのは、「時間」という概念は論理的に矛盾をはらんでいるということだ。

たとえば物理学上の概念である「エネルギー」や「エントロピー」とかが、もし論理的に矛盾をはらんでいることが立証されたなら、その概念は棄却せざるを得なくなる。もともとそれらの概念は理論構築のための作業仮説に過ぎなかったものだから、棄却しても現実の世界には何の影響もないだろう。マクタガートの主張することもこれと同じで、「時間」という概念は論理的に矛盾しているから棄却すべきと言うことだろう。

ここで論理的に矛盾するとは以下のようなことだ。論理学では「あるものがAでありかつ非Aであることはできない」という命題は、普遍的真理(公理)とみなされており。例えばリンゴは赤くかつ赤くないことはできない。マクタガートの議論の大筋は、時間が実在するとすれば、この公理「あるものがAでありかつ非Aであることはできない」が偽(ウソ)となってしまう、ということだった。詳しくは本書第2章および第3章を翻読されたし。

このくだりを読んで心中深く納得した。といっても、時間の非実在性を納得したのではない。このマクタガートという人にとって、世界がどのように見えているかが分かった気がした。

 即ちこの人は「記憶の人フネス」なり。ボルヘスのこの短編を読んだ人ならご承知のように、フネス氏は驚くべき記憶力を持っており。彼が庭で飼い猫がまどろんでいるのを見るとき、彼にとって午後1時32分42秒の猫と午後1時32分43秒の猫とは別物なり。なぜといって、その二つは等しい鮮明さで別々に彼の記憶に焼きついているから。

 このような記憶を持つ人には時間という概念は必要なし。つまり「午後1時32分42秒の猫」を猫A(あるいは猫133242)、「午後1時32分43秒の猫」を猫B(あるいは猫133243)と名づければそれで済む話なり。実際、ボルヘスの小説によれば、フネス氏は猫Aと猫Bを、同じ猫と認識するあたわず。彼にとって、それらは互いに関連を持たぬ二つの別個のものなり。われわれ凡人が、「いやそれは同じ猫だ」、とフネス氏を説得せんとすれば、必ずや氏は、「あるものがA(=猫A)でありかつ非A(=猫B)であることはできない。それは論理的矛盾だ」と言いつつ頑強に抵抗するならん。ちょうどマクタガートのように。

ボルヘスの愛読者はこの本に目を通すことをお勧めす。さすれば「記憶の人フネス」をよりよく味読できるならん。全然関係ない話だが、裏表紙に著者と一緒に写っている猫がいやに馬鹿でかくみえて不気味なり。あれは遠近法のマジックであろうか。