中国人問題


 
ロナルド・A・ノックス大司教いわく、

支那人を登場させてはならない。——なぜならないのか、その理由を説明するのはむずかしい。われわれ西洋人には支那人を目(もく)して、頭脳においておそろしく秀でており、道徳方面では冷酷単純である、という風に考える習慣があるからだとでも言っておこうか。私は自分の観察結果をいうのだが、もし諸君が探偵小説を読んでいるうちに「チン・ルウの切れ長の目が」とでも書いてあるのに出くわしたなら、諸君はそれでもうすぐにその本を読むのを中止するにこしたことはない。それはいい探偵小説ではないのだから。(井上良夫訳。『カニバリズム論』より孫引き)

『カニバリズム論』に収められた中野美代子のエッセイ「虚構と遊戯」はこのノックスの第五戒律を論じている。そこで中野美代子はノックスに「全く同感」だと述べている。

「ノックスのこの見解は偏見に満ちていると憤慨する人があるかもしれない。たしかに、理由づけは、ノックス自身もむずかしいと言っているようにまことにあいまいだ。しかし、結論には、私も全く同感なのである。だからと云って、その理由を問われれば、私も亦ひどく困惑する」(『カニバリズム論』福武文庫版 p.192) ——つまりノックスの気持ちは大変よくわかるけれど、なぜかと聞かれると困る、というわけだ。

でもこのエッセイ「虚構と遊戯」の趣旨をあえて乱暴に要約すれば「中国人の国民性はあまりに現実的なので探偵小説の遊戯性とは相いれない」ということになろうかと思う。『カニバリズム論』が出版されたのは一九七二年。そのころの中国はたしかにそんな感じだったのかもしれない。

しかしノックスの文章をよく読むとわかるが、彼は中国人それ自体に問題があるとは言っていない。むしろ西洋人が中国人を見るまなざしに問題があると言っている。

このノックスの第五条を自己流に敷衍すると、「人殺し」というような危い領域で遊ぶためには、作中人物のあいだで、それなりの倫理観が共有されていなければならない、ということではなかろうか。

だが謎めいた中国人が登場すると、その条件が崩れかねない。バスケットボールの試合にサッカーの選手が紛れ込んだようになって、落ち着いて試合を見ていられないようになる。仮にそれがわれわれ西洋人の偏見にすぎなくとも、ということではなかろうか。

十字軍とか新大陸征服とかの例でも見られるように、西洋人は「異教徒との争いは滅ぼすか滅ぼされるかしかない」と考えがちなのではなかろうか。ましてやローマン・カトリックの大司教ともなれば。だから推理小説のような殺人物語に異教徒が出てくるとなんだかモジモジと落ち着かない気持ちになるのではないか。

——とここまで考えると、否が応でも先日触れた西澤保彦の『神のロジック 人間のマジック』を連想せざるをえなくなる。だからこの作品はノックスの第五戒律それ自体をテーマにした小説ともいえよう。

多重叙述トリック

 
本格ミステリには『毒入りチョコレート事件』に(おそらく)はじまる「多重解決もの」というジャンルがある。たとえば貫井徳郎のある作品では、ある解決での探偵役が、次の解決では犯人にされるという趣向を四度も繰り返す超絶技巧が用いられている。この作品では真犯人は最後まで不明なのだが、作中の法則でいけば、おそらく最後の解決の探偵役が真犯人なのだろう。そしてそれはまさしく、最初に犯人と疑われた人物なのだ。すごいすごい。まるでシュニッツラーの「輪舞」ではないか。

これを叙述トリックに応用した「多重叙述トリック」が考えられないだろうか。SFでは作例はすでにある。宮内悠介の「超動く家にて」がそれだ。しかしこれは明らかにギャグとして書かれている。もっとシリアスな多重叙述はないものか。

いやいや、アントニー・バークリーにしても、「超動く家にて」とまったく同じく、『毒入りチョコレート事件』をギャグのつもりで書いたのかもしれない。あの人は何をやるかわからない人だから。

しかし多重叙述トリックは難しそうである。というのは真相は登場人物たちには明らかで、それが隠されているのは読者に対してだけなのだから。たとえば男を女と錯覚させる話なら、作中人物は誰もその人が女だと知っている。それを男だと錯覚しているのは読者だけだ。だから作中レベルでは真相は明らかなので、多重にはなりようがない。真相はすでに終着点を定められているので、あれでもないこれでもないと無限遠の彼方に行くことはない。いわゆる「後期クイーン問題」が叙述トリックでは生じにくい理由でもある。

もっとも最近のミステリは全然読んでないから、こうした多重叙述トリックの実例はすでに発表されているのかもしれない。生き馬の目を抜くミステリの世界では、自分が考える程度のことは、きっと他の誰かがとっくの昔に考えているだろう。

役割分担

 

本格ミステリと叙述トリックの役割分担という点で興味深いのは西澤保彦の『神のロジック 人間 (ひと) のマジック』である。これは西澤保彦の数多い作品のなかでも屈指の名作だと思う。もっとも西澤作品は半分もフォローしていないので、未読作品の中にもこのくらいの名作がゴロゴロしているのかもしれないけれど……。ちなみにこの作品はタイトルを少し変えて「コスミック出版」という版元から近ごろ再刊された。何やら清涼院流水を思わせるような怪しげな版元名であるが、この表紙イラストはこれでいいのだろうか……*1

この作品では、作者が文章表現に技巧を凝らして読者を騙そうとしているわけではない。物語はひとりの語り手の目を通して、その語り手の目に映るままに、無造作に語られている。だから厳密な意味では叙述トリック作品とはいえないかもしれない。だが結果として叙述トリックに非常に似た効果をあげている。ために以下ではあえて「叙述トリック」と呼ぼう。

この作品ではフーダニットは本格部分が受け持ち、ホワイダニットは叙述トリック部分が受け持っている。分業が徹底しているのである。叙述トリックにまったく気づかなくても、犯人当てには支障がないようになっている。いわばりんごジュースと青汁が完全に分離して別々に味わえるようになっているのだ。その点でも得がたい作品だと思う。

つまり、本格ミステリの方の謎をカモフラージュするために叙述トリックが使われているわけではない。そこが『聖女の救済』と違うところで、「おのれ謀りおって」という怒りがわいてこない理由でもある。

*1:【12/28付記】これでいいのだ! 右下の妙な指を見逃していた。もし帯があったらこの指が隠れるであろうから実は完璧な表紙イラストだった!

敵ながらアッパレ

まだまだ続くミステリの話。誰も読んでないような気もするけれど、年寄りというのは物覚えが悪く、いったん思いついたことでも次の瞬間には忘れてしまう。だから忘備のためにここにメモしておくのである。

さて、19日の日記で『聖女の救済』の叙述トリックに「くそう卑怯な」と怒った話をした。事実叙述トリック作品には「おのれ謀(たばか)りおって」と怒りたくなるものと「敵ながらアッパレ」と讃えたくなるものがある。これはフェアとかアンフェアとかには関係ない。フェアであればあるほど怒りたくなるものもある。こうした読後感の違いはどこから来るのか。

自分の好きな叙述トリック作品は「叙述トリックの他は何もない」もの。古典的な例でいうと、フランスミステリの『〇〇〇〇〇』とか、ビル・バリンジャ―の『〇〇〇〇〇〇』とか。日本で言えば小泉喜美子の『〇〇〇〇〇〇』とか泡坂妻夫の『〇〇〇〇〇〇』など。つまり「すべてが読者を騙すために構築されている」というその構築美にしびれるのだ。逆にそうでなく、付けたりみたいに叙述トリックが使われていると、釈然としないものが残る。

叙述トリックと本格ミステリとは次元の違うカテゴリだと思う。つまり「本格ミステリではあるが叙述トリックではないもの」は当たり前に存在するし、「叙述トリックではあるが本格ミステリではないもの」も当然存在する。そもそも叙述トリックはミステリ特有のものではなく、「叙述トリックホラー」とか「叙述トリックSF」にも作例はある。

しかし叙述トリック作品を本格に含めたくなる人も気持ちはよくわかる。そこには本格ミステリと共通する構築美があるから。だが両者の本質的な違いについて、厳然とした一線もあるように思う。その違いはというと、手がかりあるいは伏線の有無というか強度であろう。

「男だと思っていたら女だった」の例でいうと、叙述トリック作品では、「Xは男ではありえない」という手がかりを途中で提出する必要は必ずしもないと思う。鮎川哲也の短篇「〇〇〇〇〇」みたいに「あれれ、なんだか変だな。でも変な作家だからこのくらいは変でもしかたないかな」と頭の隅で微かに感じるくらいの違和感があれば伏線としては十分だと思う。あるいはそんなものさえなくて、終盤で大驚愕させるのもまたよろし。

りんごジュースの謎

またまた昨日の続きである。どうもミステリの話をはじめると、わが身は山本リンダと化して、どうにもとまらなくて困る。

それはともかく、昨日は、『聖女の救済』と『容疑者Xの献身』はほとんど同じ構造をしているのに、前者には「純粋本格」を感じ、後者は本格と呼ぶのが躊躇される。それはなぜか、という謎をとりあげた。

それを考えるために、こういう思考実験をしよう。ここにりんご果汁と水を半々に混ぜた液体があるとする。これを「りんごジュース」と呼んでよいものか。

これは大多数の人がイエスと答えると思う。「りんご果汁100%でなければ『りんごジュース』とはいえない」という人はごく少数だろう。

では、りんご果汁と青汁を半々に混ぜた液体の場合はどうか。この場合はおおよそ三つの立場に分かれるだろう。

  1. りんご果汁の含有率は先ほどの例と変わらないのだから、これも「りんごジュース」と呼ぶべきである。でないと一貫性が失われる。
  2. これを「りんごジュース」と呼ぶのは生理的にためらわれる。
  3. 飲んでみて美味かったら「りんごジュース」と呼んでやってもいい。

 
まあ早い話が、『容疑者X』の犯人のキャラクターは強烈に青汁感がするが、『聖女』の犯人のキャラクターには青汁感を感じない。むしろ水と感じる、ということだ。『容疑者X』と『聖女』を分けるポイントは、すくなくとも自分はここにある。

「不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない」とヴァン・ダインは二十則の第三条で言っている。ヴァン・ダインの言いたかったのはこういうことだったのか。とようやく今になってわかった。ヴァン・ダインはようするに「青汁を混ぜるな」と言っているのだ。もしかしたら悪名高いノックスの第五戒律も同じ趣旨なのかもしれない。

だがちょっと待てよ、という気はする。石神は確かに異常な人物であるが、まったくの他人とは思えない。そこには作品から立ち上がってくるリアリティがあって、それが青汁となっている。しかし『聖女』の犯人が青汁でなく水なのは(つまり絵空事のキャラクターとしてしか感じられないのは)単に自分が男性であるからなのではないか。

ここらへんはちょっと女性の意見が聞いてみたいところである。女性から見ると『聖女』の犯人も石神と同程度に生臭く感じられるのだろうか。

『聖女の救済』はより本格か?

(これは一昨日の日記の続きです)

『容疑者Xの献身』のトリックは途中で見当がついた。といっても推理でわかったわけではない。似たトリックを使った某長篇を前に読んでいたので「ああ、あの手か」と思ったにすぎない。ご存知の方も多いと思うが、この某長篇とは、佐野洋が『推理日記』で批判して作者との応酬があったあの作品のことである。

ただ『容疑者X』でホームレスが関わっていたことは見破れなかった。某長篇では、犯人の母がたまたま病死したことになっている。だから『容疑者X』も「まあ、どこかで見つけたんだろうな」くらいに思いながら読んでいた。それだけにホームレスには衝撃を受けた。

ここで『聖女の救済』の話に移ると、この作品も『容疑者X』と基本設定は同じである。つまり犯人は明らかだが、その人には堅固なアリバイがあって殺せるはずがない、という謎を扱っている。そしてトリックも『容疑者X』の応用編みたいになっている。つまり『容疑者X』で数学教師石神が「幾何とみせかけて実は代数の問題」みたいなテスト問題を作るが、つまりはそういうことなのだ。

しかし『聖女』のほうは、さんざん頭を絞ったのに、そして作中の名探偵湯川が何度もヒントを出してくれているのに、トリックは見当さえつかなかった。とうとうあきらめて解決篇を読んだ。そして驚愕した。そんな単純な手だったとは!

実はこの作品ではある個所で部分的に叙述トリックが仕掛けられていて、それが目くらましになっていたのだ。その個所はゲームのルールを定めるための描写だとばかり思っていた。つまり、『犯人は**で、これは**のアリバイを崩す話ですよ』ということを作者が暗示するための描写、つまり一種の「読者への挑戦」とばかり思っていた。ところが何ということだ。読者への挑戦に叙述トリックを仕掛ける奴がいたとは。

叙述トリックだからもちろん嘘はついていない。それでも「くそう卑怯な手を使いやがって」と怒りがこみあげてくるのはいかんともしがたい。もっとも微妙な叙述トリックなので、そもそもそれに気づかなかった人もいたかもしれない。そういう人のほうがむしろトリックは当てやすいかもしれない。

ともあれ読了後は『聖女』のほうが『容疑者X』より本格度は高いと思った。それどころかクイーンの国名シリーズと同じくらい純粋本格に近いとも思った。だが今考えてみると、どちらも「異常な犯人が常識では考えられないような異常なトリックを用いる。そのトリックが犯人の異常性を際立たせて効果をあげている」という点では同じなのである。それなのになぜ『聖女』のほうに強く本格性を感じるのだろう。

『容疑者Xの献身』再訪


 

昨日の続き)日が暮れる頃にはやや回復したので、『CRITICA』のバックナンバーを読んで過ごした。これは『「新青年」趣味』『Re-Clam』『CRITICA』というミステリ評論同人誌御三家のなかでは、もっとも「熱い」雑誌だと思う。評される対象と評する人の距離がもっとも近いといってもいい。初期の号ではいわゆる『容疑者X』論争がたびたび取りあげられていて、「ああそんなこともあったな」と懐かしく読んだ。

実をいうと「『容疑者Xの献身』は本格である」という物言いには当時から違和感があった。たしかに『容疑者X』ではフェアに手がかりが提示されていて、最後に意外な真相が明かされる。だから、たとえば、「ロスマクの『さむけ』は本格だ」と言うときの意味での「本格」なら、たしかに本格だろう。そこまで反対するつもりはない。しかし『さむけ』がもし昔の創元推理文庫に入ったとすると、背表紙はハテナおじさんマークにするだろうか。そこはやはりピストルではなかろうか。

つまり、作者が書きたかったのは、ロスマクと同様に、パズラーではなかっただろうと思う。書きたかったのはむしろ、異常な人物による歪んだ愛のかたち、愛する人を自分の支配下に置きたいという欲望、ストーカーの極限形態といったものではなかったか。冒頭の殺人は正当防衛で無罪になる可能性が高いから、石神が彼女を普通に愛していたのなら、取るべき最適な行動は、説得して自首させることであったはずだ。そしてその優れた頭脳は、弁護士と協力して彼女を無罪にするために使うべきであった。

それはともかく、CRITICA vol.3 (2008) には市川尚吾氏の長文論考「本格ミステリの軒下で」が載っている。これも実に刺激的で熱い文章で、副反応で鈍った頭を励起させる作用があった。

ここでは『容疑者Xの献身』について、「「叙述トリック一発」のどんでん返しが仕掛けられており、読者に不意打ちを食らわせるタイプの作品である」と書かれてある。しかし『容疑者X』は(仮に本格であることを認めるとしても)叙述トリック作品だろうか。

叙述トリックとは作者が読者にかけるトリックだが、この作品では読者がだまされているのと同じところで作中の刑事もだまされている。だから叙述トリックとはいえないと思う。湯川ものの次作『聖女の救済』なら立派な叙述トリックで、おまけにパズル性も『容疑者X』より格段に高いと思うけれど。

ただし、「倒叙ものと見せかけて実はハウダニット」あるいは「アリバイ崩しものと見せかけて実は違う」という意味でなら『容疑者X』も叙述トリック(=作者が読者にかけるトリック)といえるだろう。これは「男と見せかけて実は女」とか「今年と見せかけて実は去年」などよりも一レベル上のトリックだ。文章表現によって読者をだますのではなく、読者のジャンル意識を逆手にとってだます、いわばメタ叙述トリックだから。

そういえば天下の怪作『赤い右手』も「サイコサスペンスと見せかけて実はフーダニット」だった。これもジャンルを錯誤させるメタ叙述トリックといえるかもしれない。もっとも『赤い右手』の場合は、作者のたくらみというより、「何も考えてないのに結果的にそうなった」という天然感がただよってはいるけれど。

東野圭吾の『黒笑小説』だったか『歪笑小説』だったかに、自分ではハードボイルドを書いているつもりなのに編集者からはユーモアミステリーとしか思われていない作家が出てくる。『赤い右手』を書いたJ. T. ロジャーズもそんな作家だったのかもしれない。本人としては心底真面目にパズラーを書こうとしていたのかもしれない。

一億円の夢


 

先日コロナワクチンの四回目を打った。この前モデルナを打ったときは副反応が少し重かったので、今度はファイザー(オミクロン株対応)にした。

だが副反応は来た。当日は腕が痛いくらいで他は大丈夫だったが、夜中にガタガタと震えが来て、朝目が覚めても床から起き上がれない。熱もある。昼にようやく起きられるようになってフラフラとよろめきながら食事に出かけた。もっとも症状は風邪にそっくりだったので、実は副反応ではなく、ただ風邪を引いただけなのかもしれない。

寝たままで何もできないと下らないことを考える。年末宝くじで一億当たったらどうしよう。うん。そうそう。T京S元社の大株主になってやろう。そしてハテナおじさんとか猫とかの、文庫の背表紙マークを復活してもらうのだ。

もちろん昔のマークにこだわる必要はない。クラシックは古い分類を踏襲するとしても、新作は今の実情にあわせるほうがいい。コージーならティーカップとか、サイコサスペンスなら左に巻いた渦巻きとか、奇書ならウロボロスとか。

そんな色々なマークが書店にズラリと並んだらさぞ壮観だろう。「どうです。わが社(すでに大株主のつもり)は、ミステリのあらゆる分野をひととおり揃えているんですよ」と、そういうことが棚を見たら一目でわかるようにしたい。

読者の立場からしても「この本は面白かったけど他に似た本はないか」と思ったとき便利だし、「これでS元S理文庫の左渦巻は全冊読破!」というような達成感も得られる。いいことばかりではないか。

『新編 怪奇幻想の文学2 吸血鬼』

かつての名アンソロジーを今に蘇らせるシリーズの第二弾『吸血鬼』がもうすぐ出ます。不肖わたくしも巻頭の中篇「謎の男」の訳で参戦しております。
 


 
この「謎の男」を書いたK. A. フォン・ヴァクスマン(1787-1862) は当時は人気作家だったみたいですが今はほとんど忘れられているようです。ただ「謎の男」だけは、おそらくモンタギュー・サマーズ編の『ヴィクトリア朝幽霊譚』に"The Mysterious Stranger, from the German"と題された英訳(1860)が収録されたおかげもあって未だバリバリの現役です。仏訳 (2013)西訳 (2022)も今でも新刊としてアマゾンで手に入ります。

主人公は純真だけどちょっと頼りない青年。それから勝ち気でわがままな幼なじみの美少女と、片腕が機械仕掛けの頼もしい相棒がいます。なんだか既視感ありまくりの設定です。ほんとうに十九世紀ドイツの小説なのでしょうか。

その美少女も襲われ役だけに甘んじてはいなくて、吸血鬼に最後にトドメを刺すのはこの幼なじみなのです。そのあいだ主人公の青年は何をしているかというとほとんど何もしないでオロオロするだけ。「うる星やつら」でいえば諸星あたるみたいな役どころといえましょう。ほんとうに十九(以下略

下楠昌哉氏も解説で「読みどころ溢れる大活劇で、吸血鬼が当時のエンタメを支える怪物の一翼を担っていたことがよくわかる」と褒めてくださっています。12月1日発売予定です。乞うご期待!

【11/26追記】下楠氏のお名前を誤記しておりました。大変失礼しました。

新刊断念

久しぶりに起動したプリンターが不調*1で文学フリマ新刊は断念。いずれ盛林堂さんにお願いして通販しようと思っています。

というわけで代わり映えしない頒布物で申し訳ありませんが、よろしければ明日は会場でお会いしましょう。

*1:スジが出る。たぶんイメージドラムが老化したのでは