『本の幽霊』


 

先週洋書まつりに行ったついでに東京堂書店をのぞいたら西崎憲さんの新刊『本の幽霊』があった。奥付によれば9月30日の発行だったそうだが、不覚にも全然知らなかった! 

冒頭の短篇「本の幽霊」の語り手はむかしロンドンの幻想文学専門古書店から届くカタログを見て本を注文していたそうだ。そして同じ趣味を持つ友人がいた。「友人は当時福岡に住んでいて、カタログが届くのが一日遅かった。だからいい本をぜんぶぼくに持っていかれるとたまにこぼした」

気のせいかもしれないがこの「友人」のモデルの人には一度お会いしたような気がする。さらにこの古書店はファンタシー・センターのような気もする。

最後に置かれた「三田さん」には歌を教える人が出てくる。その人はいわゆるリズム感についてこう語っている。

「つまりは一定の速度で拍を正確に刻むこと、時間を正確に刻むこと、それがリズム感と呼ばれるものだと思う[……]/で、ある人間が一定の速度で時間を刻めないことにはいくつか理由があって、一番多いのは一定の拍にただ慣れていないってことなんだ。音楽が好きでよく聴く人間にもそういうことはけっこうあり[……]」

ここはまさに自分のことを言われているような気がした。

「時間を刻めない人は音楽と時間が結びついているという感覚を持たない。だから歌うときにふたつのことをしないといけない。つまりメロディーと歌詞の複合物を現前化することと、一定の感覚で時間を刻むことだ。ふたつのタスクをこなさないといけないから[……]負荷が大きくなる。うまく歌えないのは当然なんだ」

うーんなるほどますます自分のことのような気がしてきた。

で、そういう人はどんな練習をすればいいのかということが次に書いてある。しかしこれ以上引用すると営業妨害になりそうだから、これは皆さんご自分で読んでみてください。

『O嬢の物語』の叙述トリック


 

倉阪鬼一郎さんのミステリには「壮麗な館らしく描写されたものが実は〇〇だった」というのがかなりある。講談社ノベルスで出たもののうち半数以上はそうではなかろうか。

いっぽうレア―ジュの『O嬢の物語』『ロワッシーへの帰還』の二冊からなるO嬢二部作も、ミステリ的観点から読むとそんな味わいがある。正篇『O嬢の物語』で描かれたロワッシーの館はちょっと現実離れしたユートピアめいた場所なのだが、続篇『ロワッシーへの帰還』を読むとそれは一種の叙述トリックであったことがわかり、そこで館の真実の姿が明かされる。つまりこのO嬢二部作は、ある意味では館もの叙述トリックの王道ともいえる作品であって、倉阪さんのたとえば『新世界崩壊』にすごく似ている。

ちなみにフランス流叙述トリックでたいそう有名な某作品は1959年に出ている。『O嬢』はそれより5年早い。

しかしながらこの作品が最初から叙述トリック狙いで構想されたのかというとそれはかなり疑問だ。たぶん違うだろう。何しろ正篇が出たのが1954年、続篇は1969年とかなり間が空いているから。

『O嬢』を出したときの作者は続篇を書くつもりさえなかっただろう。それが読書界で見当違いの喝采を受けたおかげで、作者の心に、何というか、悪意が芽生えたのではなかろうか。この続篇は身勝手な夢を見る男性読者たちへの強烈なしっぺ返しではあるまいか。それはドン・キホーテの正篇と続篇の関係に少し似てはいないか——いや全然違うか。

田村書店の不思議な出品物

昨日と今日は洋書まつり。今回は三日月書店さんがアラビア語のタイプライターを出品している。もしかしてウケ狙い? それとも誰か買うのだろうか。

例によって田村書店さんの本が奥の壁面のかなりの部分を占めている。今回は新品同様といった感じのフランス書が大半を占めている。店主に聞くと全部一人の方の個人蔵書だという。それも大学の先生ではなくて在野の方だという。人文系編集者をやってらした方だろうか。

それはそうと、すごい量だなと思って本を仔細に見て行くと不思議なことに気づいた。ダブリ本がやけに多い。全部で百組近くあるのではないか。まるで双生児クラブのパーティーに紛れ込んだような趣である。これは何だろう? 読書用と保存用に二冊買っているのかな、とも思ったけれども、新しさは似たようなもので、どちらにもあまり読まれた形跡がない。

少し病的なものが感じられなくもなくて薄気味悪く思ったけれど、それはそれ、これはこれ。例によって段ボール箱二箱くらい買ってしまったのだった。

Capicua

またボルヘスが訳せるといいな、今度は伝記を訳したいなと思いながら未練がましく西和大辞典をぱらぱらめくっているとcapicuaなる変な単語に出くわした。
 

ようするに岡嶋二人の山本山コンビみたいに、逆から読んでも同じになる単語や数字のことを言うらしい。こんな言葉があるというのが頼もしくてスペイン語への信頼感が増す。日本語にも「回文」という言葉はあるけど、一単語で「回文」とは言わないと思うし、ましてや数字には使えないと思う。

『九人の偽聖者の密室』


 

将来自分も「奇想天外の本棚」を企画するようになったときのために(妄想)、何かの参考になるかと読んでみた。作者のバウチャーは1911生まれで、この『偽聖者』は1940年の出版だから、バウチャーが二十歳代で書いた小説になる。なるほど作家やら警部補やら尼僧やらが、まるで学生みたいにディスカッションする様子は「若いね~。まるで黎明期の新本格だね~」という感じでほほえましい。

これを読み終わってつくづく感じたのは、「それにしても『本陣殺人事件』は名作だった!」ということだ。

人を殺そうとして複雑なカラクリを弄するときは、もしそれが計画殺人なら、事前にそのカラクリがうまくいくか試したくなるのが人情だろう。出たとこ任せで決行して失敗したら目も当てられない。

かといって、予行演習しているところを人に見られたら、別の意味で目も当てられない。

『本陣』の優れた点は、その予行演習がプロットに緊密に組み込まれていることだ。もし犯人が予行演習をしていなかったらプロットそのものが成り立たない、というところまで緊密に組み込まれている。今さら言うのもなんだが、やはり横溝は偉大だ。

カラクリが一読しただけではよく吞み込めない、というのを『本陣』の欠陥のようにいう人もいる。だがそれは誤りだと思う。なぜかというと、第一に、そんな変なカラクリを考案することそれ自体が、犯人の偏執的な性格を表わしていて、少々異常な動機に間接的に説得力をもたせているから。

第二に、それだけ複雑なカラクリだからこそ、予行演習の必要があって、先に言ったように、それがプロットを推進させる力になっている。つまり、このプロットを(「トリックを」ではないことに注意!)成り立たせるためには、ぜひともカラクリは複雑でなければならない。

S蔵書との照合

「プヒプヒ版・奇想天外の本棚」の中で、澁澤龍彦蔵書と共通しているものはどれくらいあるだろうと思って調べてみた。雨の降る朝にはついこういうことがしたくなる。結果は十二冊中五冊。ただしベレンの本で澁澤書庫にあったのは『サバトの女王』ではなく『感覚の貯蔵庫』だったので「奇想天外の本棚」も日和ってそちらに変更した。

しかしこの蔵書目録を眺めるといつも感嘆するのは、本当に必要なものだけが精選されているということだ。しかも慰安のためと思しき本が見当たらない。松山俊太郎邸には「風呂の中で読むための本」というコーナーがあって、日影丈吉のハイカラ右京などが置いてあったらしい。しかし澁澤邸にはそういうコーナーはとてもなさそうだ。そもそもカラスの行水で、本を読む間もなく、あっというまに入って出ていたような気もする。

タレコミあり

昨日のブログを読んでくださった方からさっそくタレコミがあった。国書刊行会から近々アーサー・マッケンの自伝が出るそうだ。それも南條竹則氏の訳で!

おそらく今頃は南條氏のもとに不幸の手紙が矢のように届いていることだろう。『あくび猫』によれば「あの編集長は過去何人も訳者を殺して」いるそうな。南條氏がその一人とならぬよう切に祈りたい。

プヒプヒ版・奇想天外の本棚

国書刊行会パンフレットによれば山口雅也氏が「製作総指揮」という、「奇想天外の本棚」があちこちで話題を呼んでいるようです。内容に関しては三門優祐氏のブログ深海通信 はてなブログ版が整理されていて便利です。

こんなふうに実現可能性無視で好き勝手に叢書を企画できるとは羨ましいことです。さっそく真似をしてこれのプヒプヒ版を作ってみました。1970年以前の刊行物に絞って英仏独それぞれ十二冊の叢書です。(年号は原著刊行年。*は短編集。★は英訳あり。※は澁澤龍彦蔵書目録にあり。☆はエディション・プヒプヒ刊行の部分訳あり。)
 
第一期 ドイツ・オーストリア篇

  1. パウル・シェーアバルト『ミュンヒハウゼンとクラリッサ*』(1905)★
  2. パウル・ブッソン『メルヒオール・ドロンテの転生』(1921)★
  3. ヴィルヘルム・フォン・ショルツ『偶然』(1924)
  4. ヴィリ・ザイデル『温室の中の神』(1925)
  5. フランツ・ヴェルフェル『未生者たちの星』(1946)★
  6. グルタフ・ルネ・ホッケ『踊る神』(1948)
  7. ヴィル-エーリヒ・ポイケルト『汎知術』(1956)
  8. フリッツ・フォン・ヘルツマノフスキー=オルランド『さまよえる幽霊船上の夜会』(1957)☆
  9. ハイミート・フォン・ドーデラー『誰もがおかす殺人』(1964)★
  10. ペーター・マーギンター『男爵と魚』(1966)★
  11. ペーター・フォン・トラーミン『窓の中の扉』(1967)
  12. ヘルベルト・ローゼンドルファー『廃墟建築親方』(1969)★

 
第二期 イギリス篇

  1. ジョージ・ボロウ『スペインの聖書』(1843)
  2. リチャード・F・バートン『ウルティマ・トゥーレ』(1872)
  3. ジョン・アディントン・シモンズ『ギリシア倫理の一問題/近代倫理の一問題』(1883/91)☆
  4. オースティン・ドブスン『十八世紀肖像集*』(1892-96)
  5. ジョン・デヴィッドソン『ラヴェンダー伯爵』(1895)
  6. フレデリック・ロルフ『自らを象りて*』(1901)☆
  7. ロバート・ヒュー・ベンソン『ネクロマンサー』(1909)
  8. アーネスト・ブラマ『カイ・ルンの黄金の時*』(1922)
  9. アーサー・マッケン『はるけき事ども/おちこち草』(1922/23)
  10. モンタギュー・サマーズ『ゴシック探求』(1938)
  11. T・E・ロレンス『ミント』(1955)
  12. ウィリアム・ベックフォード『フォントヒルの日々』(1957)

 
第三期 フランスおよびフランス語圏篇

  1. マルセル・シュオブ『サモアへの旅』(1930)
  2. モーリス・ルナール『レルヌ博士』(1908)★
  3. オスカル・ミロシュ『愛のイニシエーション』(1910)★※
  4. イレーヌ・イレ-レルランジェ『カレイドスコープへの旅』(1919)
  5. フランツ・エランス『メリュジーヌ』(1920)
  6. モーリス・マーグル『虎の秘密』(1927)★※
  7. ピエール・シャンピオン『マルセル・シュオブとその時代』(1927)
  8. ミシェル・ド・ゲルドロード『妖術*』(1941)★※
  9. モーリス・サンド『迷路/窓のない部屋』(1941/1943)★☆
  10. ベレン(ネリー・カプラン)『感覚の貯蔵庫*』(1946) ※
  11. ジャン・フェリー『機関士とその他のコント*』(1953)★※
  12. フェリクス・ヴァロトン『コルブオー』(1970)


もちろん(自分の知るかぎり)刊行予定はまったくありません。しかし「競合他社の皆さん、手出しは無用ですよ!」なんてケチなことは申しませんよ。おぼつかない語学力でトボトボ読むより、人が訳してくれたものを読む方が楽に決まってますから。ただし下手に訳すくらいなら訳さない方がなんぼうかましです。

『烙印』


 
今月の宇陀児第二弾も読み応えがあった。強いて集中のベスト3を挙げるとすれば以下のようになろうか。

「決闘街」——良心の呵責からおかしくなりかけている二人が決闘を望みながら果たせず、やり場に困った不完全燃焼の感情が、ふとした偶然をきっかけにとんでもない捌け口を見出し、二人はとうとう精神の均衡を失ってしまう。最後の殺人場面はスラップスティックと言いたくなるほどだが、それでいて妙なカタルシスがある。「わが望みはいわゆるリアリズムの世界から逸脱するにある」と乱歩は言ったけれど、これもまた見事な逸脱といえよう。異常心理から奇行への跳躍はポーの「天邪鬼」「告げ口心像」「黒猫」あたりを思わせる。もしかしたら宇陀児はポーのこうした短篇に影響を受けたのかもしれない。ラストの三行である「物」が出現して怪談になる呼吸も絶妙。もっともこういうジャンル越境的なところ (宇陀児の言葉で言えば馬の頭に角を生やす実験) がある種の原理主義者に嫌われるのだろうけれど……。

「不思議な母」——タイトル通り変なお母さんの話。作者の筆はこの特異なキャラクターを生き生きと浮かび上がらせているが、一歩間違えればギャグになりかねないほど、やはり普通のリアリズムからは逸脱しているのではなかろうか。このお母さんが探偵役で、まあ名探偵と言ってもいいのだけど、普通のミステリの感覚からすれば相当に変かもしれない。なんとも異様なハッピーエンドも一読忘れがたい。オフビートとはこういうものを言うのだろうか。

「危険なる姉妹」——一種の〇人〇役トリックが用いられている。しかも解説でも指摘されているように、読者が途中でそれに薄々気づくように語られている。つまり「真相開示の驚き」を狙ったものではなく「おぼろな予感から来る恐怖」を狙った作品であろう。このトリックを用いた語りによって「余はいかにして悪女となりしか」が惻々と読者に迫る。「ああそうか、今までのくだくだしい話は全部『余はいかにして悪女となりしか』を語ったものだったのか」と読者が感づいたとたんにゾワッと寒気が走るのだ。もちろん美女が一瞬にして老婆になるという、日本古来の伝統芸ともいえる恐怖もある。そしてラストは「そんなのうまくいくわけないだろ!」と誰もが思う別の駄トリックを犯人が計画するところで終わっている。たぶん一発でばれて監獄行きになるだろうが、そこらへんは一行も書かないところが憎い。

少なくともこれらの作品については、宇陀児は乱歩の名作短篇の塁を摩しているか、あるいは上回っているように思える。巻末のエッセイで宇陀児はいわゆる「探偵小説の鬼」を忌み嫌っているが、それはそうだろうと思う。宇陀児作品のトリックはどれもトリックそのものとしての独創性はあまりない。独創性はむしろ作中におけるトリックの役割、あるいはトリックとそれを使う人間の結びつきにある。つまり「危険なる姉妹」でも「蛍」でも、「こういうトリックを弄する人間」という形で、人間を描いているといっていいだろう(その意味では世評高い「凧」や「爪」は物足りなく感じられるが……)。同様に「不思議な母」では「こういう探偵をする人間」という形で人間を描いている。こんな風に探偵小説のガジェットあるいは約束事を意外な用途に使うところに宇陀児の独創性があると思うのだがどうだろう。

『本の雑誌10月号』


 
『本の雑誌』十月号の特集は「あなたの知らない索引の世界」。そこに「この本の索引がすごい!」という読者アンケートがある。そこでまたもやエゴサーチの鬼と化し、「ドレドレ誰か『記憶の図書館』を挙げてくれてるかな」と淡い期待とともに読んだ。だが当たり前のようになかった。

でもこの本の索引はおそらく他にあまり例を見ないものだと思う。「例のあの人」「思い出したくない人」など、ボルヘスがあえて明言を避けた人についても、堂々と実名で索引に記載されてあるのだから。