『ホフマン小説集成』2

この『ホフマン小説集成』は、よほど古典音楽にうるさい、いや詳しい人が目を通したらしく、音楽関係の校訂が行き届いているようだ。そのせいかどうか、読んでいるとあちこちのページから妙なる音が聞えてくる気がする。なるほどホフマンは文筆の人であると同時に音楽の人でもあったのだなあと感じ入った。

ホフマンの本質は幻想(あるいは幻視)小説家なのか、それとも音楽小説家なのか、すくなくともこの『ホフマン小説集成(上)』を読むかぎりでは判別がつきがたい。後者に軍配を上げる人だって少なからずいるだろう。

人も知るようにホフマンは作曲家でもあり、コンサートマスターを務めていたこともあった。むかし神保町の文庫川村の近くにハンバーグ専門店の入っていたビルがあって、そこに趣味のよいクラシック専門レコード店があった。八十年代末の、まだCDが普及していない頃の話である。そこにホフマンの曲を吹き込んだレコードが何枚かあったのを覚えている。でも当時はさほど興味がなく、少なくとも大枚をはたいて買うほどの興味はなく、「あああるなあ」と思っただけでスルーしてしまった。『ホフマン小説集成』を読んでいるうちにそのことを卒然と思い出し、今更ながら猛烈に後悔した。

本でもレコードでもそうだけれど、自分の家にあるものの在りかはよく把握していないくせに、買い逃して後悔したものはどの店のどこらへんにあったかを覚えている。なぜだろう。
 
【5/26付記】店の名を思い出した。たしか「パパゲーノ」だった。

『ホフマン小説集成』

また少し間が空いてしまったけれどそのあいだ何をしていたかというと、『ホフマン小説集成(上)』を読んでいた。いわゆる「山吹色の本」である。この本は版元から献呈してもらった。山吹色はしているけれど別にワイロではなく、フーゴー・シュタイナー=プラークの挿絵原本を提供したお礼らしい。そういえばそんなこともありました。かなり昔、たしか『怪奇骨董翻訳箱』が出る前の話だったので、すっかり忘れておりました。あらためてありがとうございます。でもエビでタイを釣った気がしないでもない。なにしろあの本は神保町の崇文堂書店の店頭段ボール箱から八百円で拾ったものだったから。

それはそれとして、石川道雄のホフマン訳は噛めば噛むほど味の出る名訳であって、この本といい、少し前に出た『完訳・エリア随筆』といい、「地の塩」ともいうべき本をぽつぽつ出す国書刊行会は偉大だなあと思う。「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか」。それに版面、つまり文字のフォントとページ内の文章の配置もすばらしい。この国書の版面で『夢野久作全集』を読むと、久作のあの田舎臭い文章さえなんだかオシャレになるのだから、その魔術は堂に入っている。

この本の中の『家督相続異聞』には平井呈一の訳もある。『古城物語』という題でむかし奢灞都館から出た。こちらも甲乙つけがたい名訳で、おそらく平井呈一の全訳業の中でも五指に入ると思う。石川道雄・平井呈一という二大名匠に訳された『家督相続異聞』は果報者といえよう。作品自体も両人を魅惑したのも無理はない名品である。『オトラント城』や『ヴァテック』といったイギリスのゴシック小説に比べると地味目なのは否めないけれど、繰り返しの再読に堪える。そういえば『ブランビラ姫』も種村季弘による訳があった。

Webちくまに「ペルッツの世界」が

百合のことはひとまずおいといてたまには宣伝を。

先日雑誌「ちくま」に掲載された「ペルッツの世界」がWebちくまでも公開されました。よろしければ読んでいただければと思います。

ツイッターとか読書メーターとかを見る限りでは『テュルリュパン』はなかなか好評のようでありがたく思っています。これがある程度売れてくれれば今や幻となってしまった例の作品も再刊できるかもしれません。

これが百合か3


 
『安達としまむら』を十巻まで読んだ。いや~よかった。感服つかまつった。これが百合か。百合というものか。なるほどね~。これが男女の恋愛だったらここまで切なくひたむきにはならないように思う。

恋愛感情のひたむきさでこれに近い読後感のものに、中井英夫の『月蝕領崩壊』があった。しかしあちらは不治の病という禁じ手を使っているし、何より実話である。それに対してこちらはアニメ調のイラストが入ったいかにもラノベ風のフィクションである。そのフィクションの力で、しかも悲劇的なイベントをいっさい起こさず、能天気なままであれに拮抗している。

だがこちらにも死のテーマはおぼろに浮かんでいる。しまむらの祖父母の家の老犬がいまにも死にそうで、祖母が定期的にその写メを送ってくるのだ。いや、「死のテーマ」というよりは、時間の移り変わりのテーマといったほうがいいかもしれない。それは高校生から社会人への移り変わりであるし、人としての成長でもあるし、もちろん時間の経過にともなう恋愛感情の変化でもある。だってほら、十巻を読み終った時点で一巻の体育館二階のシーンを振り返ると、「はるけくも来つるものかな」って感じになるじゃないですか。

この小説には老若あわせて四組の百合カップルが登場する。しまむら母と安達母も合わせると五組かもしれないが、これはさすがに百合とはいえまい。あと樽見を入れるとすれば四組半か。しかし四組あるいは四組半のうち二組は、ほんの短いシーンで一回だけ、それも間接的な暗示で現われるにすぎない。しかしそれが小説に奥行を与えているし、百合初心者へのガイドともなっている。

これが百合か2


 
『安達としまむら』の六巻以降は結局多摩センターの丸善で買えた。こちらにもやはり「2020年10月8日(木)から放送開始!」という、すでに放映終了したTVアニメの帯がついている。これが何を意味するかというと……もしかすると多摩センターはうどん県と同じくらいの田舎なのだろうか? より都心に近い他の書店、たとえば経堂の三省堂には、電撃文庫の入間人間作品は本年刊行の『私の初恋相手がキスしてた』1,2しか置いていないのだから。

それはともかく、そういうわけで今『安達と~』の七巻を読んでいるところなのだけれど、未読の方に配慮して故意に曖昧に書くと、安達の狂恋ぶりがどんどん亢進していくのが気になる。この作者のことだから、どんな鬱展開になってもおかしくない。まさか「エミリーに薔薇を」みたいなことにはならないとは思うけれど……。ともかく「読むのをやめろ! 引き返せ!」という赤信号が、あたかも『マルドロールの歌』の冒頭のように灯っている感じがするのだ。百合というのが大体わかったからここらへんで止めておくのが無難か? いやしかしヤシロ(やっちー)の正体だけは見とどけたい。

これが百合か

すこし日記の間が空いてしまったけれど、そのあいだ何をしていたかというと『安達としまむら』を読んでいた。『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』で衝撃的なデビューを飾った入間人間の二〇一五年の作品である。
 

 
これを読んで百合というものがわかったような気がした。

 これが百合か
 百合というものか
 ああその水は
 糖分に満ちている

……いやそうじゃなくて、これは安達という人見知りで人付き合いの苦手な高校生が、しまむらという同級生が好きで好きでたまらなくなって、いろいろジタバタする話である。そのしまむらというのが、安達の気持をあまり理解できず、妹みたいなものと思っている。しかもしまむらには姉体質があって、妹に慕われるし、小学生時代の同級生にも慕われるし、安達にはライバルが多くてさあ大変、なのである。

複数一人称というか、それもかなり多くて六、七人くらいの視点を代わる代わる採用する、いわゆる多元描写が用いられているのだが、それが自然に決まっているところに、小説のうまさが光っている。一人だけ視点人物にならないのがいて、それがどうやら宇宙人らしいのも「おぬしなかなかやるな」という感じである。

うまいといえば文章もうまい。何よりも揺れ動く安達の心理をこれでもかというくらいに丹念に描いてくれていて、それが自分のような百合初心者には非常に助かる。百合というものが当たり前に存在する地点からスタートする物語は初心者にはきびしい。しかしこの小説くらいていねいに描いてくれればなんとかついていける。

たとえば、安達のしまむらへの思いはこんなところから始まる。
「私は、しまむらに優先されたいだけだ。/しまむらが友達という言葉を聞いて、私を最初に思い浮かべてほしい」(第一巻 p.106)

これならよくわかる。自分の中学時代を思い返してみても、いつも一緒にいる女の子二人がいた。ああいうのの発展形が百合の、少なくとも一形態になっていたのですね。

ところでこの間まで故郷のうどん県に帰省していて、『安達としまむら』もそこで五巻まで読んだ。東京に帰ってさあ続きを読みましょうと思ったら、これがどこにも売っていない。うどん県のジュンク堂には「2020年10月8日(木)から放送開始!」という帯を堂々とつけた本が一巻から十巻までピシっと並んでいたのに……。都会では電撃文庫は賞味期限の短い消耗品なのだろうか。おかげで深刻なしまむらロスである。

『地獄の門』


 

訳者解説によれば、作者モーリス・ルヴェルは何百もの短篇を書きながら、多くは新聞に掲載されたきりで、生前は二冊しか短篇集が出なかったという。なんだかジャック・リッチーみたいですね、作風は大違いだけれど。ともあれ読み捨てられたはずだったそんな文章が、極東の島国で丹念に拾い集められ一世紀をへて出版されるとは、作者も墓の下で驚いているのではあるまいか。小説というものの不思議な性質に思いをいたさずにはおれない。

「雄鶏は鳴いた」みたいなシャープな落ちのついた作品も中にはあるが、多くは何らかの事件が語られるだけで、そして語られたきりでそのまま終わる。大時計とか黒眼鏡とか古井戸とか、さりげないけれど効果的なオブジェが中心に据えられて印象を鮮やかにしている。

語られるのはおもに不幸で無気力で、運命のなすがままに翻弄される人たちである。その点では日本の私小説とか心境小説とかいったものに似ている。たとえば芥川の「トロッコ」など「校正の朱筆を握っている」うんぬんという最終パラグラフさえなければ、そのままルヴェルの世界といっていいくらいだ。創元推理文庫版『夜鳥』が何度も版を重ねたように日本で愛好される訳はそこにもあるのかもしれない。

ただ私小説などと違うのは語られるのが異常な事件というところだ。しかしそれにもかかわらず、「それがどうかしましたか? しょせんこうなるしかなかったんですよ」みたいな感じで、それこそ私小説風に淡々と語られる。この淡々と語るところに独自の小説技巧があることは注目すべきだと思う。それは「アア諸君、なんというおそろしいことでありましょう」とかそういうものの対極にあるものだ。

『ちくま』と『本の雑誌』


 
筑摩書房のPR誌『ちくま』5月号に「ペルッツの世界」を寄稿しました。この雑誌はヒグチユウコさんの絵がすばらしく、失礼な言い方になるかもしれませんが、この表紙絵は印刷も含めてPR誌にはもったいないくらいのクオリティです。ヒグチさんは表紙裏のマンガも面白いです。

わたしの原稿はペルッツ紹介という感じで書きましたので、ペルッツを知らない人もご一読いただければありがたいです。

ところで、やはり5月号の『本の雑誌』を読んでいたら、「黒い昼食会」という匿名座談会で、今はウクライナの本がすごく売れているとある方が発言していました。「中公新書の『物語 ウクライナの歴史』もあればあるだけ売れる」というから大変なものです。ウクライナ出身の作家ブルガーコフも注目を浴びているみたいですね。

実はちくま文庫で出たペルッツの『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』にも、ロシア革命当時のロシアとウクライナの戦いをあつかった一章があるんですよ。『ちくま』の記事に書けばよかったと思いましたがすでにあとの祭りです。

『長い別れ』


 

女の運転するロールスロイスから白髪の青年が放り出されたのを目撃したマーロウは、そのまま青年を家に連れて帰る。そういえば少し前に『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』というライトノベルがあった。だがタフガイはもちろんそんなものは拾わない。拾うのは銀髪イケメンである。

この青年テリー・レノックスはマーロウに妙になつき、二人はときどきいっしょに飲む仲になる。ある日テリーがだしぬけに現われ、メキシコへの逃亡を手伝ってくれと言う。頼みを聞いたばかりにマーロウは官憲にひどい目にあわされる。

ようやく釈放されたと思ったらこんどはガラの悪い男がオフィスに来て、インネンを吹っかけてくる。何かと思ったら「おれなら賭博師がいかさまカードを切るよりすばやく国外に出してやれたのに、なのにやつはお前に泣きついた」。それが癪にさわるので文句を言いにきたのだ。

何だこれは! 読者は目が点になるだろう。まるで奥さんが夫の愛人の家に押しかけてキーとかヒステリー起こしてるみたいじゃないか。白昼堂々痴話げんかか? マーロウはこのゴロツキの腹にパンチを一発お見舞いする。ゴロツキは「おまえは妙に憎めないやつだよ、マーロウ」と好意的な(?)捨てゼリフを吐いて退散する。

ここらへんで作者チャンドラーもハッとわれにかえって、「しまった! このままではある種の女子が大喜びしてしまう!」と思った。のかどうかは知らないが、このあとわざとらしいハードボイルド調の新展開があり、やがて金髪美女まで出てくる。しかしこの登場はいかにも遅すぎる。もうすでに読者の心は前座のテリー・レノックスに食われたあとである。

ここで帯の惹句にもなっている「別れを告げるということは、ほんの少し死ぬことだ」というセリフが出てくる。それが「フランス語の言い回し」と言われていることに注意したい。OEDによるとフランス語の "la petite mort" (小さな死) が英語の文章で使われた場合、現代では特に "the sensation of post orgasm as likened to death"を意味するという。もし「別れを告げるということは~」にもこのニュアンスがあるとすれば、このときマーロウがロマンティックな気分に浸っていたとは考えがたい。もしかしたら「賢者タイム」的な意味合いさえこもっていたのかもしれない。

少なくとも最後から二番目のパラグラフの「それでも私は耳をすましつづけた」にくらべれば、かなりの温度差があることはだれしも認めるだろう。最後にはチャンドラーも、ある種の女子が大喜びしてもしかたないと観念したのだろうか。知らないけど。


ところで六年前の日記に書いたように、ラストで登場する人物の正体については三つの考え方がある。

  1. 正真正銘の本人であった。
  2. マーロウの幻覚であった。
  3. 亡霊であった。

今回新訳でまた読んだというのも、もしかしたらこの問題の答への糸口が見つからないかと思ってだった。やはり判然とはしなかったが、あえていえば、やはり本命は二番目ではなかろうかと思う。テリーに再会できたマーロウの嬉しさとか驚きとかが妙に伝わってこないし、最終章の第五十三章で交わされる会話があまりに整然としていてテリー本人らしくないからだ。マーロウはときどき昔の棋譜をとりだして一人でチェスをやるけれど、ここの会話もなんだかそんな匂いがする。

チャンドラーの作品にはたまにマーロウの幻覚としか思えない人物が出てくる。たとえばこの前とりあげた『さよなら、愛しいひと』でいえば、おしまいの方で出てくるモーツァルトを弾く警官である。やはりしょっちゅう頭を殴られたり酒を飲みすぎるのがよくないのではなかろうか。

 
【5/11付記】創元推理文庫版の裏表紙にある紹介文を見たら「〇〇した彼から」と書いてあった。ということはこれを書いた人は第一の可能性をあらかじめ排除していることになる。創元推理文庫はこういうところには抜かりがなくて、たとえば某日本作家の某長篇では女を男と錯覚させるトリックが用いられているのだが、紹介文では「その青年は」という言葉は避けて「その若者は」という表現を使ってあった。それほど表現に気を使う版元なのだから、〇〇してもいないのに「〇〇した」と書くわけはなかろうと思う。これも第二の可能性の傍証とならないだろうか。