『長い別れ』


 

女の運転するロールスロイスから白髪の青年が放り出されたのを目撃したマーロウは、そのまま青年を家に連れて帰る。そういえば少し前に『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』というライトノベルがあった。だがタフガイはもちろんそんなものは拾わない。拾うのは銀髪イケメンである。

この青年テリー・レノックスはマーロウに妙になつき、二人はときどきいっしょに飲む仲になる。ある日テリーがだしぬけに現われ、メキシコへの逃亡を手伝ってくれと言う。頼みを聞いたばかりにマーロウは官憲にひどい目にあわされる。

ようやく釈放されたと思ったらこんどはガラの悪い男がオフィスに来て、インネンを吹っかけてくる。何かと思ったら「おれなら賭博師がいかさまカードを切るよりすばやく国外に出してやれたのに、なのにやつはお前に泣きついた」。それが癪にさわるので文句を言いにきたのだ。

何だこれは! 読者は目が点になるだろう。まるで奥さんが夫の愛人の家に押しかけてキーとかヒステリー起こしてるみたいじゃないか。白昼堂々痴話げんかか? マーロウはこのゴロツキの腹にパンチを一発お見舞いする。ゴロツキは「おまえは妙に憎めないやつだよ、マーロウ」と好意的な(?)捨てゼリフを吐いて退散する。

ここらへんで作者チャンドラーもハッとわれにかえって、「しまった! このままではある種の女子が大喜びしてしまう!」と思った。のかどうかは知らないが、このあとわざとらしいハードボイルド調の新展開があり、やがて金髪美女まで出てくる。しかしこの登場はいかにも遅すぎる。もうすでに読者の心は前座のテリー・レノックスに食われたあとである。

ここで帯の惹句にもなっている「別れを告げるということは、ほんの少し死ぬことだ」というセリフが出てくる。それが「フランス語の言い回し」と言われていることに注意したい。OEDによるとフランス語の "la petite mort" (小さな死) が英語の文章で使われた場合、現代では特に "the sensation of post orgasm as likened to death"を意味するという。もし「別れを告げるということは~」にもこのニュアンスがあるとすれば、このときマーロウがロマンティックな気分に浸っていたとは考えがたい。もしかしたら「賢者タイム」的な意味合いさえこもっていたのかもしれない。

少なくとも最後から二番目のパラグラフの「それでも私は耳をすましつづけた」にくらべれば、かなりの温度差があることはだれしも認めるだろう。最後にはチャンドラーも、ある種の女子が大喜びしてもしかたないと観念したのだろうか。知らないけど。


ところで六年前の日記に書いたように、ラストで登場する人物の正体については三つの考え方がある。

  1. 正真正銘の本人であった。
  2. マーロウの幻覚であった。
  3. 亡霊であった。

今回新訳でまた読んだというのも、もしかしたらこの問題の答への糸口が見つからないかと思ってだった。やはり判然とはしなかったが、あえていえば、やはり本命は二番目ではなかろうかと思う。テリーに再会できたマーロウの嬉しさとか驚きとかが妙に伝わってこないし、最終章の第五十三章で交わされる会話があまりに整然としていてテリー本人らしくないからだ。マーロウはときどき昔の棋譜をとりだして一人でチェスをやるけれど、ここの会話もなんだかそんな匂いがする。

チャンドラーの作品にはたまにマーロウの幻覚としか思えない人物が出てくる。たとえばこの前とりあげた『さよなら、愛しいひと』でいえば、おしまいの方で出てくるモーツァルトを弾く警官である。やはりしょっちゅう頭を殴られたり酒を飲みすぎるのがよくないのではなかろうか。

 
【5/11付記】創元推理文庫版の裏表紙にある紹介文を見たら「〇〇した彼から」と書いてあった。ということはこれを書いた人は第一の可能性をあらかじめ排除していることになる。創元推理文庫はこういうところには抜かりがなくて、たとえば某日本作家の某長篇では女を男と錯覚させるトリックが用いられているのだが、紹介文では「その青年は」という言葉は避けて「その若者は」という表現を使ってあった。それほど表現に気を使う版元なのだから、〇〇してもいないのに「〇〇した」と書くわけはなかろうと思う。これも第二の可能性の傍証とならないだろうか。

『エルクマン-シャトリアン 怪奇幻想短編集』


 
昨日は久しぶりに盛林堂書房まで出向いて『エルクマン-シャトリアン 怪奇幻想短編集』を買ってきた。ウェブ上で販売されるやまたたくまに売り切れてしまい、そのまま幻となった本である。でも幸い店舗にはまだ残っていた。

「挿絵が入っているだけで本文はむかしROM叢書から出た版と変わらない」との噂が一部で流れている。しかし盛林堂の小野さんによるとそれはデマだという。書肆盛林堂の誇る敏腕校正スタッフが綿密に赤を入れたため、文章は元版とはかなり変わっているそうだ。ということでROM版を持っている人もぜひ二度とないこの機会に。

『手招く美女』


 
世間ではとうに『マゼラン雲』とか『ホフマン小説集成上』とかが出ているというのに、今日ようやく『手招く美女』のページを開いた。最近の国書の刊行ペースについていくのは老残の身にはなかなかハードである。

巻頭の「手招く美女」はむかしむかし牧神社の『こわい話 気味のわるい話』で読んだことがある。今回久しぶりに再読して、「あれれこんな話だったっけ」とちょっととまどった。

たとえば平井呈一訳で読んだ人は、おしまい近くで警部が「腸詰みたいにブヨブヨしたもの」を見つけて「うわー!」と叫ぶシーンを覚えておられると思う。でも今回の新訳では腸詰は出てこない。ブヨブヨもしていない。出てくるのは「大きい粒粒 (つぶつぶ)のあるプディング」である。幸か不幸かプディングといわれても、プリンと違うことを知っているだけで、うまくイメージが浮かばないので、ショックもよほどやわらげられる。

それから警部も「うわー!」とは叫ばない。「ああ!」と言うだけである。警部が「うわー!」と叫べば読者もいっしょに「うわー!」と心の中で叫ぶ。だが「ああ!」には「ああ、やっぱり」みたいなニュアンスが感じられる。

これでもわかるように新訳は旧訳より登場人物の感情の起伏が穏やかである。たとえば旧訳で「それなのに、かれは今日はじめて、この女に結婚の申込をしなくてよかったと、そのことを心から感謝したのであった」となっているところは、新訳では「それでも、そうしなくて良かったと感じたのは今が初めてだった」とサラリと流している。「心から感謝」はしていない。オトラント城の登場人物に「シェー」とか「ムハハハハ」とか言わせるような平井翁の癖がここでも出たのだろうか。

それはともかく、そのせいかどうか、旧訳はいかにも怪談そのものという感じだったのに比べて、新訳から感じられるのは、むしろ一人の男と三人の女の心理劇である。

一人の男とは主人公ポール・オレロンで、ユングのある本の邦訳題名を借りて言えば「人生の午後三時」にいる。三人の女の一人目はその女友達エルシー・ベンゴフで、名前の響きと太ってそうな体形から考えるとスラヴ系だろうか。主人公の保護者役をかって出るような世話焼きでおせっかいなタイプである。二人目は主人公の書きかけの小説のヒロインであるロミリー。主人公とエルシーの間にできた精神的な娘ともいうべきキャラクターである(というのは、この名はオレロンとエルシーの合成みたいな気もするから)。そして三人目は、主人公の住む家に憑いている——何といおうか、邪悪なものである。

こんなふうにキャラクターの布置が決まると、あとはフランス古典悲劇のように、あるいは詰将棋のように、作者が最善手を指し続けるかぎり、なるようになる、というか、なるようにしかならない。登場人物の意志はあってなきがごとくである。

その点では『死都ブルージュ』にちょっと似ているけれど、『ブルージュ』が女二人(+都市) 対男一人だったのに対し、『手招く』は女の数が一人増えていて、それだけ心理の綾のインタープレイが込み入ってくる。たとえば主人公がまず最初は気に入っていたロミリーにうんざりするところ。これは都筑道夫の「阿蘭陀すてれん」を連想させて、さてはエルシーなるものも一種の霊能者であったのかとも思わせる。今回の新訳ではそこらへんを一番堪能した。これは旧訳ではまったく感じられなかった。

一度ならず二度までも

 
SFファン交流会のアンケートには「二度と訳したくありません」と書いてしまったキャベル。実はそのあともう一度訳しているのを思い出しました。『ナイトランド・クォータリー vol.20 バベルの図書館』に載せてもらった「デミウルゴスについて」がそれです。

これは『マニュエル伝』の第一巻に相当する『生の彼方へ (Beyond Life) 』の一章を抜粋したものです。この『生の彼方へ』は小説ではなく、対話の形を借りてキャベルが自分の文学観を思うさま開陳したものです。リアリズム排撃、ロマンス重視の熱弁がとうとうとふるわれて一読の価値があります。

キャベル以外にもこの『ナイトランド・クォータリー 』第二十巻にはゾラン・ジヴコヴィッチ、ジーン・ウルフ、M・ジョン・ハリスン、フランク・オーウェンとすごい名前がぎゅうぎゅうに詰まっています。ちと値ははりますが幻想文学愛好家なら手元に備えるべき一冊でありましょう。

おうそうそう、高山宏ロングインタビューもこの号には載っていました。すでにして永久保存版ですね。

パぺの表紙

SFファン交流会も盛況のうちに終了したようで何よりです。わたしは残念ながら外せない用があって参加できませんでした。あらためてお詫びします。

その代わり、といっては何ですがパぺ関連の小ネタをひとつ。

2006年にエディション・プヒプヒからスタニスワフ・レム追悼本『発狂した仕立屋 その他の抜粋』を出しました。そのときの表紙(これ)にパぺの挿絵を使いました。たしか "The Silver Stallion" からだったように記憶していますが違うかもしれません。レムとパぺはよく似合います。

共感性

 
『テュルリュパン』を読んでくださった方の感想がツィッターにぽつぽつ現われてきました。ありがたく読んでいます。今までのところいちばん「うんうんそうだよね」と思ったのは季春さんという方の次の感想。

「テュルリュパンめっちゃ面白かったが共感性羞恥的なアレが多くてちょっと読むの辛かったところもある」

うんうんそうですよね。訳者自身も訳しているあいだ実はちょっとつらかった。特にテュルリュパンが貴族たちの雑談に仲間入りしていろいろしでかすところ。なんだか過去の自分がフラッシュバックしてくるような気がしたよ。

もしテュルリュパンが長生きをしていれば、折にふれてあの館での体験を思い返し、「ウキャー」と床を転げ回って身もだえるのではないでしょうか。それとも「恥の多い生涯を送ってきました」と達観しているでしょうか。

『悪魔を見た処女 吉良運平翻訳セレクション』

 

 

学魔の新刊『鎮魂譜 アリス狩りVII』を買おうと思って雨の中を東京堂書店まで行った。お目当ての本は新刊平台ですぐ見つかったが、そのすぐ近くに目を疑うような本が並べてあった。すなわち本書である。

吉良運平の名は乱歩『幻影城』の愛読者にはおなじみだと思う。乱歩をして「チャンスラーという作家は私は知らない。チャンドラーの間違いではない」と言わしめた全欧探偵小説叢書の企画者である。この叢書のもとになったドイツのミステリ叢書「アルベルト・ミュラー選書」は加瀬義雄氏の『失われたミステリ史』でも言及されていて、その英米作家の選択を加瀬氏は「超ユニーク」と評されていた。

しかしまさか吉良運平が新刊台に並ぶとは。論創海外ミステリの底知れぬ天然というか酔狂さというか無謀さというか、ともかく得体のしれない姿勢に戦慄した一瞬であった。3月30日の日記で触れた都筑道夫創訳集成にしてもそうだったが、最近はまったく何が出るかわからない。古本屋を漁るより新刊棚を見る方がよほど楽しい。

それはともかく吉良運平は3800円、アリス狩りは3600円、サテどうしよう。と少し迷ったあげく、俺が買わなくて一体誰が買うというのだ、という気持ちに突き動かされて、吉良運平を買った。アリス狩りのほうはきっとみんなが買うだろう。

本書にはエツィオ・デリコの『悪魔を見た処女』(1940, イタリア)とカルロ・アンダーセンの『遺書の誓い』(1938, デンマーク)の二長篇が収録されている。まず『悪魔を見た処女』から読んでみた。

なかなかよかった。翻訳は古めかしいとはいえ快調で、「論創海外ミステリ」の中でも上位にランクされると思う。乱歩が「訳文もよろしく」と書いてあるとおりである。特に会話が自然でよい。

推理小説としての骨格も、英米黄金期のゆるい本格(たとえばクリストファー・ブッシュとか)にひけをとるものではない。少なくとも作者は本格推理小説の何たるかを理解している印象を受けた。これはこの時期の英米以外のミステリとしては珍しい。

たとえばなぜ処女(おとめ) が「悪魔を見た」のか、その意味が最後にわかるところ——犯行完遂のためにはどうしても「悪魔」が必要だったのだ。あるいはそこから逃げたはずはないのに窓から逃走用の縄が垂れ下がっている謎とか。これらはおお、と嬉しくなるような真相なのである。

ただ何となくアブリッジくさい匂いはする。病院を脱走した人のエピソードなどは中途半端だし。本書はドイツ語を介した重訳なので、いずれかの段階でアブリッジが行われたのかもしれない。

第五章に余計な一文があるがために(87ページ)、この時期のミステリを読みなれた人にはトリックはバレバレである。ただトリックはわかっても犯人がわからないのが不思議なところで、それもそのはず、なんと、巻頭の主要登場人物一覧に犯人の名が挙がっていないのだ。

でもこれは、作者を弁護するわけではないが、ファシズム支配下のイタリアでは、犯罪者はアウトサイダーでなくてはならぬという不文律があったからだろうと思う。また、横井司氏が解説で指摘しているとおり、叙述のフェアネスについて文句を言う人もいるだろう。しかしこれも昔の本格なら許容範囲ではないか。いかにもイタリア人ふうの、ものにこだわらないおおらかさと捉えたい。

ちなみに原題は "La donna che ha visto" で、これは英語にすれば "The lady who has seen" となる。つまり直訳すれば(家政婦でなく)『レディは見た』であって、レディが何を見たのか、そしてレディとは誰のことであるかは特定されていない。真相から考えればこの原題のほうが含蓄があっていいと思う。

最古の叙述トリック作品は?

 

 

夏来健次・平戸懐古というすばらしいタッグによる英米古典吸血鬼小説傑作集『吸血鬼ラスヴァン』が来月末に東京創元社から出るらしい。おお、これはものすごいものになりそうで今から楽しみだ。

平戸懐古氏といえば、話は急に変わるが、氏が私家版「懐古文庫」で訳出したホレス・ウォルポール『象形文字譚集』によれば、この中に収められているある短篇が最古の叙述トリック作品である可能性があるという。この原本は1785年に出ているから、確かにこれより古い前例を見つけるのは難しそうだ。

もっともこの短篇はポー以前のものだから、明らかにミステリー(推理小説)ではない。では、意識的にミステリーとして書かれた作品で、最初に叙述トリックを使ったものは何だろう?

この問いを考えるには、まず叙述トリックの定義をはっきりさせなければならない。とりあえずそれを「作者が読者に仕掛けるトリックで、叙述の綾によって読者になんらかの誤認を起こさせるもの。もちろん作者は嘘はついていない」としよう。たとえばこの定義には、人によっては叙述トリック作品に含めることもある『アクロイド殺し』はあてはまらない。この作品では犯人はポワロに向けてトリックを仕掛けているし、叙述のまやかしで読者の誤認を狙ったものではないから。

自分が読んだ中で、この定義にあてはまる作品として最も古いのは『水平線の男』(1946)だった。少なくともこれは『歯と爪』(1955)や『殺人交叉点』(1957)よりはずっと古い。でももっと古いのもありそうな気はする。

漏れ聞く噂によれば山口雅也氏が「奇想天外の本棚」というシリーズでこの作品の新訳を企画しているそうだ。今の人がこれをどう読むかちょっと興味がある。最後まで読んだあと、最初の章を読み返してその情景を想像すると、何ともいえずしみじみとする小説ではある。

我が尻よ

浅暮三文さん(通称グレさん)が久しぶりにファンタジーを出すらしい。ゴールデンウィーク明けに河出文庫から、題して『我が尻よ、高らかに謳え、愛の唄を』。表紙絵は今をときめくYOUCHAN。

それにしてもあまりに不穏なタイトルである。中井英夫とか、須永朝彦とか、そちらのほうの世界の話なのだろうか。これは何を置いても読まずにはいられまい。

いっぽう噂の『左川ちか全集』も、アマゾンの予約ページによればゴールデンウィーク前、4月27日に出るそうだ。これも楽しみである。本体2800円というリーズナブルな価格もありがたい。こちらの表紙絵は、『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』を彩ってくださったタダジュンさん。

本代は支払われたのだろうか

昨日書影をあげたヴェデキント仏訳本は、十数年前に洋書まつりで生田旧蔵書が大放出されたときに手にいれた。あのときは生田が晩年にいたるまで豪快に本を買い続けていたことがわかってびっくりしたものだった。現にあのヴェデキント仏訳の刊行年一九九〇年は、生田の逝去する四年前にあたる。

ただひとつ気になるのは、はたして洋書店に本の代金は支払われたのだろうかということだ。京都大学は例のバイロス事件でとうの昔に辞めていたからろくな収入源とてなかったろうに……

話は変わるがここに野々村一雄『学者商売』という本がある(一九六〇 中央公論社)。著者はソヴィエト経済を専門とした元一橋大学教授。自社のめぼしい本はたいてい文庫化した中央公論社も、この本はあまりに赤裸々すぎる内容をはばかったのか文庫にはなっていないようだ。でも増田書店とかロージナ茶房とか、今もある店の話が出てきてうれしい。

そこに「現に僕は、本屋に借金がたまっているおかげで、時々本屋さんから泣かされることがある」という一節がある。代金を払ってもらえない書店が泣くのではない。踏み倒した著者の方が泣くのだから驚きだ。「必要な本で、カタログをみて注文しておいた本が、よその人のところにはとどいていて、僕のところにはとどかないのである。電話をかけてきいてみると、『品切です』という。品切はまだいい方で、『まだ来ません』と言われる場合がある」……そりゃ仕方ないよとこちらは思うが、なんだかこの著者は被害者意識を持っているらしい。不思議な頭の構造といえよう。

生田耕作も「るさんちまん」だったかに掲載された日記の中で、ある即売会について、「先着順でもなし、抽選でもなし、いぶかしい」という意味のことを書いていた。これももしかしたら、払いが悪いために敬遠されたのではあるまいか。下種のかんぐりではあるけれど……


それはともかく、死ぬまで大量に本を買い続けた生田の気持ちはわかる。死んでしまえば本は買えないから今のうちに思いきり買っておこうという気持ちは痛いほどわかる。生田はオリヴァー・ロッジやカミーユ・フラマリオンの本を読んで死後の世界を信じていたようだ。しかしさすがに向こうの世界にも国書刊行会や東京創元社があるとは思っていなかっただろう。
 


 
ニュー・サイエンスを語る生田。死の八か月前のインタビューの一部(エディション・イレーヌ刊『屋上庭園 甦る言語芸術の精華』より)