三日月書店に走る


 
何ですとマッコルラン、ジャリ、ドールヴィイですと! まるで某書刊行会のようなラインナップではありませぬか。

このツイートを見るや取るものもとりあえず国立の三日月書店に走った。なるほど珍しいものがいろいろある。迷いまくったあげく60年代のシュルレアリスム雑誌「アルシブラ」五冊とマッコルランの口絵入限定本を買った。
 

 
これで一万円ちょっとなのだから安いものである。しかも内税。
 

 
だが買ったとて本当は読めやせぬのである。それならなぜ買うのか? 曰く不可解。始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。
 
店主に聞いてみると生田耕作旧蔵本なのだそうだ。なるほど何冊かの本には例の蔵書印が捺されてある。それにしても没後だいぶんになるのにいまだに古書店に出回っているとは驚いた。

いや、もしかすると、生田旧蔵本には悪魔の呪いがかかっていて、それを買ったものを速やかに死にいたらしめるのかもしれない。それで何度でも古書市場に出るのであろう。恐ろしいことではないか。

『記憶の図書館』刊行記念対談

 「週刊読書人」11月5日号に西崎憲さんとのボルヘス対談を載せていただきました。対談を企画してくださった週刊読書人のNさん、お相手してくださった西崎さんに感謝です。「週刊読書人」らしからぬ非常にゆるい対談なので気軽に読んでいただければと思います。

 面白い話題だったのに紙幅の都合で割愛されたものもけっこうあります。そんな話題の一つにボルヘスが引用している某書は実在するか否かというのがありました。わたしは実在派、西崎さんは非実在派だったのですが、なにぶん相手がボルヘスなのでわたしの旗色はぜんぜんよくない。むかし「〇〇細胞はあります!」と主張していた女性科学者がいましたがちょうどそんな感じだったのです。

無神論者の聖書


 
 
もう三十年以上も昔の話になるけれど、ある日曜日の朝、クリスチャンの友人に誘われて教会に説教を聞きに行ったことがある。教会で説教を聞いたというのは後にも先にもそのときだけである。

説教壇に立った牧師さんが聖書の一節を引用しそれに元に講話を述べていた。その後岩波文庫で出た『エックハルト説教集』を開いてみたら説教のスタイルが同じだったので驚いた。八百年も同じスタイルを保持し、あまつさえそれを東洋の島国にまで持ってくるとは大したもんだと感じ入った。

そんなことを懐かしく思い出したというのは他でもない。浅羽通明さんの久方ぶりの新刊『星新一の思想』を開いてみたら、その叙述のスタイルがやはり日曜礼拝をほうふつとさせるものだったからだ。星新一のなんらかの作品を引き合いに出し、それを何らかの形で今の生活に結びつけるという、説教風の考察が披露される。そんなスタイルが星新一のさまざまな作品を素材にして手を変え品を変え続けられる。

つまり浅羽さんは牧師が聖書を読んでコメントするように星新一全作品を読んでコメントしている。

ところどころで「預言者の預言が的中した!」みたいな表現もあって、いやこれもまさに牧師と聖書だよなあという感を深める。

聖書の各部分が成立時期も記述内容もバラバラでありながら、全体で未統一のままある種の存在感を出しているように、星新一全作品にも「星新一全作品」という以外にない一つにまとまった存在感がある。こんなことは他の作家にはあまりないことだと思う。ことに星新一くらいに大量の作品を残している人には。

おおすると星新一全作品とは無神論者の聖書のごときものであったのか。この本も毎週日曜に少しずつ読むのがいいかもしれない。

 ところで浅羽さんの妹さんのツイッターが途切れて久しいがどうしたんだろう。ふるほんどらねこ堂のメイドをやっているという噂もあるけど本当なのだろうか。いやそもそもなぜ古書店にメイドがいるのだろう。幻想文学界隈は怪しいことだらけである。

怪作コレクション堂々開幕


 
まずは帯に目をみはる。どなたが編集を担当されたかは存じあげないが、「天下のシブサワが敬意を表しているのだからお前らも皆こぞって敬意を表するがよい!」と言わんばかりの帯ではないか。

もちろん不肖わたくしも敬意を表するにやぶさかではない。はるか昔に出たボリス・ヴィアンやレーモン・クノーの作品集にくらべると、あまりにもこのコレクションの発刊は遅すぎた、と本書を一読後に感じた。

それでもカミやアルフォンス・アレからヴィアンやクノーにいたる、出たとこ任せ無責任放言小説ともいうべき一派の作品が久しぶりに邦訳されたのには諸手をあげて歓迎したい。こういう作風は、受けつけない人はまったく受けつけないだろうけれど、フランスのエスプリの精髄を代表するものには違いない。わたくしが高校生くらいの頃あこがれたフランスというのは、実にこういうフランスであった。

ギュス・ボファというのも胸を締めつける名である。箱の絵はそのギュス・ボファの手になるものであるが、これ実はマンダラゴラなんですよ。信じられます? しかしマンダラゴラがこんなになったのは作者の罪か画家の罪かはにわかには判じがたい。
 

 
そして表紙はビロードの手触りである。フランスの本ではときどき見かけるけれど、日本にもこういう技術を持った職人がいたとは驚いた。
 
解説によれば今後このコレクションには澁澤の「マドンナの真珠」のネタ元になった某作品や、十蘭の「**」のヒントになった某作品も入るらしい。まことに楽しみなことである。

ペルッツ新企画


 
 そうなんです。ペルッツ新企画が水面下で着々と進行してるのですよ。十月三十日の日記で書いた「ものすごい掘り出し物」とは、実はこの新企画に付録として入るはずの資料なのでした。よりによって絶妙のタイミングで見つかるとは。こんなこともあるんですね。

 それにしてもこの七月八月は『記憶の図書館』のゲラチェックとこのペルッツ新企画と『ナイトランド・クオータリー』のマイリンク短篇翻訳が惑星直列のように同時進行していて大変でした。百閒風に言うなら「ボルヘス、ペルッツ、マイリンク、星のごとくにうち並び」という感じです。ユリイカの須永朝彦追悼号にもお誘いいただいたのですがとてもそんな余力はなく残念ながら辞退しました。須永朝彦さんとドイツ(ルードヴィヒ二世とか)についてはちょっと書いておきたかったのですが。
 

神保町ブックフリマ2021

きょう開催の神保町ブックフリマ2021の国書刊行会ブースで、『記憶の図書館』が出ていたと風の便りに聞く。そんな~出たばかりの新刊を~値引き販売するとは~あまりにむごい仕打ちでは~と訳者としては思う。そもそも定価で買ってくれた方々に失礼ではないだろうか。

しかしつらつら考えてみるとあれか。「四階まで歩いて上る」とか「アマゾン順位が三桁なのを見たことない」とか日ごろからいろいろ言ってるので、「よくもぬかしてくれたな! 見せしめのためにあいつの本を叩き売ってやれ!」とか思われたような気がしないでもない。これからは言動に気をつけようと肝に銘じたことであった。
 

 
一方古書会館で同時開催されていた洋書まつりでは田村書店のブースでものすごい掘り出し物をしました。明日にでも荷が届いたら改めて報告します。

『怪奇骨董翻訳箱』風前の灯か?

 
アマゾンの『怪奇骨董翻訳箱』が在庫切れを繰り返していて、なんとなく版元在庫も切れかけてきたような雰囲気を醸し出しています。『ワルプルギスの夜』に続いてもうすぐお陀仏になる気配が濃厚です。あまりに凝りすぎた造本ゆえ、おそらく重版は難しいのではないかと思います。

今ならまだ間に合うので、関心のある皆様は、後で臍をかむことのないよう、早めに購入することをお勧めします。
 

 
かく言うわたくしも『怪樹の腕』を、あまりにもえぐい表紙絵ゆえに購入の二の足を踏んでいるうちにアッという間に品切れになってしまったという苦い思い出があるのです。見つけたときにサッと買っておくべきだったと後悔しきりです。

怒りをどこに

 
 『記憶の図書館』が高すぎるというお便りをときどきもらいます。しかし、しかしですよ、誰も儲けてなんかいないんです。わたしのもらう印税は微々たるものだし、取次や書店の取り分も事業を続けられるカツカツの分しかないし、ましてや版元にいたっては、社屋にエレベーターさえなくて、四階まで歩いて上り下りしてるんです。みんなヒーヒー言っているのです。

 でもここにひとつ諸悪の根源があって、何も仕事をしていないのに金をかすめとっていく奴がいます。そうです。消費税です。この本の税込価格 7,480円のうち 680円は消費税です。わたしのもらう印税よりずっとずっと多いんです。こんなに金をふんだくって、いったい何に使っているのか……

 この怒りをどこにぶつければいいんでしょうね。とりあえず次の衆院選ですかね。

在庫大復活! / アンチクリストの誕生

 
記憶の図書館: ボルヘス対話集成』のアマゾン在庫が大復活いたしました。皆様こぞってご注文ください。「国書の新刊はしょっちゅう順位三桁になっている」(版元談)そうなので、この本の順位も三桁行くかもしれません。楽しみなことです。
 

大橋洋一氏に8月31日付ブログ (ずっと下の「付記」のところ) で「アンチクリストの誕生」の斬新な解釈をしていただいています。気づくのが少し遅れましたがありがとうございます。ただ論を進める上で赤裸々にネタバレがされていますので、「アンチクリスト」を未読の方は心してお読みくださいますよう。「最後に出てくるアンチクリストが小者だ」というのはわたしも解説にも書きましたが、やはりみんなそう思うんでしょうか。