『かわいい女』再説

 
 
ダネイは1949年4月12日付の書簡で、チャンドラーの『かわいい女』(『リトル・シスター』)をくさしてこう書いている。「一体全体、これは何についての話なのか。誰が誰を、なぜ、どのように、どこで殺したのか――何もわからない」

わからないって? 困ったものだねえ。それでは僭越ながら教えてしんぜよう。

「これは何についての話」かというと、表題にもあるように『かわいい女』についての話である。当たり前ではないか。表題になっているくらいなんだから。そしてこの "Little Sister" とは誰か? つまり "Little Sister" とは具体的に作中人物の誰を指すのか? というのが物語の始めと終わりで変化しているところにこの作品の最大のミソがある。

そしてここがこの作品でもっとも本格ミステリ的な興趣を覚える部分でもある。『叔母殺人事件』と同じく、タイトルに叙述トリックが仕込まれているのである。その意味でこの『かわいい女』は、チャンドラーがいわゆる本格ミステリにもっとも接近した作品だといえよう。

誰が誰を、なぜ、どのように、どこで殺したのかというのはこの作品では一番どうでもいいところで、作者はわざとそこをアイマイにしたフシもある。つまり誰が誰であろうとしょせんは同じ穴のムジナなのであって、わざわざ区別するまでもない、区別してやるのももったいないくらいな有象無象なのである。

それに比べて最後で明かされる「かわいい女」は作品の中で毅然として立っている。チャンドラー(あるいはフィリップ・マーロウ)が彼女を "Little Sister" と呼ぶ、その呼びかけには、人生の荒波をタフに渡っていく同志への共感が感じられるではないか。いってみれば「兄弟」というのと同じ呼びかけである。

『九尾の猫』と『かわいい女』のどちらが優れているかと問うことはあまり意味がないと思う。だがこの「人間性への信頼」という一点において、いわゆる高級誌である「コスモポリタン」が前者を退け後者を採ったことは、非常に納得がいくのである。

リーの貢献


 
 
『十日間の不思議』は『九尾の猫』や『悪の起源』よりずっと優れた作品に思われる。中心アイデアは『悪の起源』に劣らず突拍子もないものだが、舞台と人物がそのアイデアにしっくり溶け合っているからだ。近隣との交渉もあまりなさそうな地方都市に植民地開拓以来の旧約的心情が残っていても不思議はないし、家父長制の権化ともいうべき妻や子に極度に抑圧的な人物だっていかにも存在しそうである。ライツヴィルのこういう一家でこういう犯罪計画が企てられるのは、言ってみればアーカムにダゴン秘密教団があるのと同じくらいに自然なものに思える。

意識喪失のプロットへの絡め方については、江戸川乱歩がはるか以前に同工のアイデアを使っているので、日本では若干サプライズが減少されるかもしれない。でも別にそれはクイーンの責任ではない。

この物語の主人公ハワードは保身のために友人エラリーを裏切る卑劣な男である。主人公がこういう人物では、読者の共感は得られないのではないかとリーは懸念した(4月16日付の手紙)。「君はどうやったら弱い人間に共感できるというのだ[……] 僕には答えが見えてきた。ハワードに共感を得させる唯一無二の可能性は[……]」(本書 p.83)。

ここでリーはこの作品に本質的貢献をしていると思う。リーにこの「答え」が見えなかったら『十日間の不思議』は傑作にはなりえなかったのではないか。しかし訳者あとがきで紹介されているダネイの手紙によれば、ダネイはこの「精神分析的」な処置に大いに不満であったという。なかなか難しいものであるが、この作品では共作がプラスに働いたことは疑うべくもないと思う。

あと驚いたことには、ダネイはこれを「エラリー・クイーン最後の事件」にしようと考えていたらしい。『レーン最後の事件』の二番煎じはできないので「間違う名探偵」にしたらしい。幸いにしてそうはならなかったわけだが、『九尾の猫』のラストの謎のようなセリフは、ダネイのこの決意と絡めて考えればいっそう味わい深いものになるような気がする。

悪の起源


続いて『悪の起源』のところを読む。この長篇をむかし読んだときは、結末で明かされる贈り物の意味にあぜんとして、今でいうバカミスではないかと思った。「何でこんなものを書いたのだろう」という不思議な感じはいまだに残っている。

だが書簡を読むとダネイはこの作品に自信満々だ。「私は嘘偽りなく思ってるよ、マン。この本は里程標になり得る――われわれにとって華々しい本になるだけでなく、〈探偵‐ミステリ〉の分野自体においても」(1950年1月27日リー宛書簡)。だから少なくとも冗談で書いたのではないらしい。

だができあがった作品は、ダネイの期待に反して、「里程標」(マイルストーン)にはならなかったと思う。どこがまずかったのか。この往復書簡集でわかるかぎりでは、またしてもダネイとリーの齟齬――ダネイの真意(というか稚気)をリーがうまく理解しなかったためではという気がする。

最初の手紙(1月23日)でリーはファンタジーとリアリティの相克について語っている。ダネイはハリウッドを「ファンタスティック」な場所ととらえているが、実際にその近くに住んでいるリーはそれは誇張されたイメージだという。このようなリーのリアリズム癖が、この作品を(あえていえば)失敗させた原因ではないか。この作品の中心アイデアであるダーウィン絡みの着想は、舞台が思い切ってファンタスティックでないと生きてこない。だから不思議の国としてのハリウッドのほうがよかった。

登場人物にしてもそうだ。たとえば淫婦デリアは、昨日引き合いに出した「不連続」でいえば、あやか夫人みたいな天衣無縫の妖精的キャラとして描くべきだった。おしまいのほうに出てくる盗賊仲間も、たとえば『宝島』に登場するような人物として描くべきだった。そんなふうな童話的雰囲気に包まれてこそ、例の着想も映えるではないか。リーが変にリアリズムにこだわったために、デリアも盗賊仲間も重苦しい人物になってしまった。

登場人物の名にアナグラムが仕掛けられてたのには驚いた。しかしこれもラストで種明かししたほうがよかったのではないか。エラリーがこのアナグラムを解いたことにして、「もちろん偶然の一致ですが、驚くべき暗合です」とか言わせたら面白かったと思う。

エラリーより名探偵


 
『記憶の図書館』は発売日を待つだけになり、もう一つの長篇(「君は貴族社会を生き抜くことができるか?」みたいな話)のほうも訳了したので、ヤレヤレとほっとして ずっと積読にしていた『エラリー・クイーン 創作の秘密』を手にとった。

とりあえず『九尾の猫』関連のところだけ読んだ。というのはこの作品、世評は高いものの、どう読んでいいかわからぬ不思議な作品であったからだ。『ドグラ・マグラ』が奇書であるのと同じ意味でこの長篇も奇書である気がする。成功作か失敗作かよくわからないところも『ドグラ・マグラ』に似ている。

1948年6月30日から8月13日にいたるまでの往復書簡を読んでこの作品の狙いが少しわかった。つまりダネイは消去法によって犯人を決定する従来のエラリーの推理方法をあきたらなく思い、巨勢博士風の「心理の足跡」による推理をエラリーにさせようとしていたらしい。ところがそれに基づいて組み立てたシノプシスがリーからダメ出しをくらってしまう。8月4日や8月9日付けのダネイ宛書簡で述べられるリーの立論は作中のエラリーよりも名探偵感がある。

「心理の足跡」というのを言い換えれば、探偵小説の形式で人間精神の奥に入ろうとしているといってもいい。それがダネイの狙いだったかもしれない。ところがこの作品の場合その手法がちょっと無理筋かもしれないと思うのは、犯人が(あえていえば)狂人だったからだ。狂人の心理の道筋をたどることは常人にはむずかしい。そして犯人の身近にいるある人物も、ある意味異常人であり、常識では推し量れないような心理の人であることが問題をさらに難しくしている。

狂人(あるいは異常人)とはいかなるものかというのは、各人がおのれの内なる狂気(あるいは異常性)に照らし合わせなければ了解できないものだろうと思う。だから人によって開きがあるのは当然だろう。その了解がダネイとリーとで(ちょうど正木教授と若林教授のように)違うと、ダネイには自然に見える心理が、リーには不自然に見えるということも起こってくるだろう。ある書簡でリーは、僕のほうが君より精神医学の知識があると、(今様に言えば)マウントを取ろうとしているが、まあそれほどリーにはダネイのプロットが不自然に見えたのだろう。

結局『九尾の猫』が成功作か失敗作かはいまだによくわからない。だがもしこの往復書簡で見られるダネイとリーとの論争が、正木教授と若林教授との対決みたいな形で、そっくりそのまま作中に取り入れられていたなら、つまりプロットを故意に曖昧にして、両論併記みたいな形で最終的な判断が読者に委ねられていたら、とてつもない傑作になったかもしれないという気はする。そのほうが恐怖感もより際立っただろう。

夏休みの宿題 (ほとんど) 終わる

 今日とある長篇の翻訳を送稿して、夏休みの宿題が (ほとんど) 終わりました。「ほとんど」というのは、まだちょっと残っているのがあるのですね。

 
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 それにしてもコロナのせいで終日家にこもっていると恐ろしく仕事がはかどるものです。一か月足らずで長篇の翻訳が仕上がってしましました(いや、よく考えたらいくらなんでも「一か月足らず」は大げさでした。正確にいえば「二か月足らず」です)。もっとも長篇といっても300枚くらいのものなので大したことはないのですが。

 なにしろ感染が恐くて書店にさえずっと行ってないのです。まあ外は死ぬほど暑いというのもありますが……。誰だったかの小説をもじって言えば、「私は、コロナについては自信がある。いつの日か、かならず感染するであろうという自信である」、という感じでおびえている昨今であります。

註の数

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Youtubeにアップされた『七つの夜』の元講演と後に書籍化されたテキストを比べると、あちこちで細かな推敲がなされているのがわかる。たぶんこの時期 (1970年代) にはボルヘスは自分で校正刷りをチェックしていたのだろう。

だが1985年に一冊目の初版が出た『記憶の図書館』の頃になると、校正は人に任せきりだったのではなかろうか。なにしろ同年に出た詩集『共謀者たち』さえ、「校正刷りは見ていません」とこの対話で語っているくらいだから、いわんや対話集においておや、という感じがする。

むかし松山俊太郎が現代教養文庫で『黒死館殺人事件』の校定版を出したとき、「カペルロ・ビアンカ」をはじめとする怪しいところは片端から本文を直すという暴挙(といっていいと思う)に出たことがある。でも今回ボルヘスの対話集を訳していて、不遜ながら松山翁の気持ちが少しわかったような気がした。

「カペルロ・ビアンカ」ほどではなくても、ちょっとこれはどうかな? と思うようなところがポツポツ見つかるのである。録音を文字起こしするときの単純なミスらしきものもあれば、ボルヘスの記憶違いに起因するらしいものもある。しかし対話集とはいえ、ボルヘス御大の本文を直すのはあまりに僭越な行いである。どうすりゃいいの~さ~しいああ~んんばあし~という感じである。

思案のあげく校定の原則は次のようにした。

(1) おそらく録音の文字起こしミスに起因するもので、仏訳で黙って本文を直しているところは、邦訳でも原則として黙って直す(一例をあげれば、 × mon vieux temps → 〇 bon vieux temps)。

(2) ボルヘスの記憶違いと思われるものは、本文はそのまま訳し、章末註でツッコミを入れる。

(3) よくわからないけど何となく変なものは、原則として本文はそのまま訳し、註も入れない(触らぬ神に祟りなしである。「ここは何となく変です」という註を入れるわけにもいかないし……)。

このツッコミ註の他に解説的な註もあるので、結果として註がやたらに多くなった。この『記憶の図書館』は世界八か国で翻訳されているらしいが、おそらく日本語訳ほど註が多い版はなかろうと思う。最初は『ジャーゲン』の註の数を凌駕して威張るつもりだったけれど、最終的に数えてみたら『ジャーゲン』に負けていた。残念である。

大宇宙の危機

これは8月23日の日記の続きです。
 
むかしむかし、某社のバラード短編全集のどれかの巻で、スケジュールが押せ押せになって、編集部総出でようやく地球の運命が救われたことがあったそうです。

しかし今回のボルヘスのケースはさらにすごくて、5月出版の契約にもかかわらず3月の時点で初稿ゲラさえ出ていなかったのですよ。しかもブツは2段組700ページの大冊です。地球どころか大宇宙の危機であります。

初稿ゲラが出たのが5月の半ばでしたが、空気を読まない訳者はゲラを赤字だらけにして返すのでした。ほら、都筑道夫の長篇に『朱漆 (うるし) の壁に血がしたたる』っていうのがあるでしょう。あんな感じで赤いのです。

その後どうなったかは詳しくは知りませんが、風の便りによれば、装丁原稿のラフを先方に送ったら大絶賛されて、おかげで期限のことはウヤムヤになったらしいです。まあなんにせよ無事に刊行できてほっとしています。もう池袋のほうには足を向けて寝られません。

しかしあれですね、バラードといいボルヘスといい版権物の翻訳というのはせわしくていけませんね。勝手に危機にされる地球とか大宇宙もさぞかし迷惑していることでしょう。とうの昔に版権が切れたものを相手にしているほうがずっと気が楽でいいです。

また佐野洋を読んだ


 
 
また佐野洋を読みました。というと「お前は佐野洋しか読むものはないんか~」と呆れられそうですが、いい意味でも悪い意味でも後を引かない、読んだらすぐに忘れられる(というとけなしてるようですが褒めてるんですよ。すくなくとも読後嫌な後味が残る本に比べれば数等ましです)から何度でも読み返しがきく佐野洋は気分転換に最適です。今ちょうど八月末までに終えなければならない翻訳のメドがついてほっと一息入れているところで、こんなときに読むのは佐野洋にかぎります。

今回読んだのは『砂の階段』。これは佐野洋作品の中では各段優れているほうではなく、佐野洋の全長篇をABCの三段階でランク付けすればBマイナスといったところでしょう。

なぜこの評価なのか。この小説では犯人Aが自分の秘密を知っているBを殺すのですが、殺すほどのことはないではないかというのがまずマイナスポイントその1です。別にのっぴきならない証拠を握られているわけではないので、仮にその秘密が漏れても、知らぬ存ぜぬで押し通せばなんとかなりそうな気がするのです。

マイナスポイントその2は、犯人Aが探偵役Cの注意をそらせるためにある行為をするところです。ところがなぜそんな行為をしたのかまったくわからない。読者は「まさか犯人がそんなことをするわけはないだろう」と思うので一種の目くらましになるのですが、作品世界の中だけで考えるとその行動の動機が理解できないのです。

マイナスポイント3は、この作品が当時世間をにぎわせたある大きな事件を背景にしているところです。犯人の動機はその事件を抜きにしては考えられないのですが、今のわれわれからすると「そんなこともあったっけ?」程度にその事件の記憶は遠のいているので(そもそも若い人はまったく知らないでしょう)今になって読むと犯行動機に切実みがないのです。
 
ところが今回再読するとけっこう読ませるのです。犯人が誰かを知ったうえで読むと、犯人がだんだん追い詰められていくのがリアルに感じられて、その点で手に汗を握ります。いうならばサスペンス小説としては上々といった感じです。

そこで思い出すのは、いつぞやも取りあげた『シンポ教授の生活とミステリ』のなかのサスペンス論「ウールリッチとハイスミスの間には深くて暗い河がある」です。ここで教授はサスペンス小説を自助型と破滅型に分類し、ウールリッチの『幻の女』を、「外見上は自助型であっても実質は破滅型サスペンスであるという離れ業に挑み、ある程度それに成功している」と高く評価されています。

この意味がわたしにはよくわからないのですが、あえて忖度するとたぶんこういうことではないかと思います。つまり、この小説の犯人に比較的早く見当がついた人にとっては、犯人の行動はまさに破滅型サスペンス以外の何物でもないので、たぶんそこを「離れ業」と評価したのではないでしょうか。ただ最後まで犯人の見当がつかない人には破滅型でもなんでもありません。現にわたしなどは、証人を次々消す手際のよさが素人離れしているので、犯人は警察官とばかり思っていました。

ということで、犯人を知った上で読むと、この『砂の階段』は実に破滅型サスペンスの秀作であって(佐野洋にもう少し文学的表現力があれば傑作になったかもしれません)、サスペンス小説と思って読むと、犯人が追い詰められ切羽つまってとった行動のひとつひとつも、また最後にとった手段も、実に腑に落ちる気がするのです。

『記憶の図書館』アマゾンで予約開始


 『記憶の図書館』のアマゾン予約がはじまりました。国書税厳しき折、恐縮ですがなにとぞご自愛を、じゃなくてもしよろしければ購入していただければとてもありがたいです。内容は価格をはるかに上回るというか、訳者が言うのもなんですが、この程度の値段なら内容にくらべればタダも同然ではないでしょうか。

 この本を出す話がはじまったのは二年前の夏、コロナのコの字もなかったのどかな時代のことでありました。国書I氏から「エージェントからこれこれの本(『記憶の図書館』の原本)の紹介が来たけどお前知ってるか」とメールが来たのです。その本にはたまたま目を通していたので「これはすばらしい本ですよ」と返信すると、「そんならお前が訳せ」とすかさずまたメールが届きました。

 それから日ならずして、版権が取れたという連絡とともに、原著三冊がドチャッと届けられたのであります。四百字詰め原稿用紙にして二千枚になんなんとする本の翻訳が、なんとメール一往復半で決まってしまったんですよ。恐ろしいではありませんか。むかし澁澤龍彦が石井恭二と古典文庫の打合せをしていたとき、その場で巖谷國士に電話をかけて『四運動の理論』の翻訳を依頼したという伝説がありますけれど、スピード感だけでいえばそれに劣らぬものがあります。

 それでこのブログの2020年12月30日の日記にありますように、去年の年末に一応訳了して送付しました。ただ訳文がまだ気にくわず、訳稿を取り戻してポチポチ直していた今年三月のこと、I氏からまたもや衝撃の知らせがありました。エージェントとの契約上五月までに出版しないといけないというのです。(続く、かもしれません)

『記憶の図書館』カバー公開

 山田英春氏のツイッターでボルヘス+フェラーリ対話集成『記憶の図書館』のカバーが公開されました。対談相手をつとめたフェラーリ氏もこのカバーを見て、「とてもオリジナルで美しさにあふれたカバーだ。東洋からのまたとない贈り物だ。カバーの真ん中にある内なる図書館は彼らがボルヘスの精神で仕事をしたことを示している」(大意)と大絶賛をしていると風の便りに聞きました。

 気になる定価は、ここだけの話ですが、今のところ6,800円 (税別) くらいが予定されていると、これもひそかに聞きました。初版部数は『ワルプルギスの夜』と同じ程度のようです。

 この本もまた昨今の国書の鈍器路線を踏襲していて、背表紙に表紙絵がスッポリ入るくらいの部厚さです。ペーパーバック版の『ダールグレン』が思い出されます。最近の国書の辞書に「分冊」の二文字はないのでしょうか。そしてたび重なる国書税の重圧にあえぐ人民をよそに、とあるロココ風の部屋では今日も優雅にクラヴサンが奏でられている模様です。フランス革命がいまにも起こりそうな塩梅ではありませんか。