夏休みの宿題 (ほとんど) 終わる

 今日とある長篇の翻訳を送稿して、夏休みの宿題が (ほとんど) 終わりました。「ほとんど」というのは、まだちょっと残っているのがあるのですね。

 
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 それにしてもコロナのせいで終日家にこもっていると恐ろしく仕事がはかどるものです。一か月足らずで長篇の翻訳が仕上がってしましました(いや、よく考えたらいくらなんでも「一か月足らず」は大げさでした。正確にいえば「二か月足らず」です)。もっとも長篇といっても300枚くらいのものなので大したことはないのですが。

 なにしろ感染が恐くて書店にさえずっと行ってないのです。まあ外は死ぬほど暑いというのもありますが……。誰だったかの小説をもじって言えば、「私は、コロナについては自信がある。いつの日か、かならず感染するであろうという自信である」、という感じでおびえている昨今であります。

註の数

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Youtubeにアップされた『七つの夜』の元講演と後に書籍化されたテキストを比べると、あちこちで細かな推敲がなされているのがわかる。たぶんこの時期 (1970年代) にはボルヘスは自分で校正刷りをチェックしていたのだろう。

だが1985年に一冊目の初版が出た『記憶の図書館』の頃になると、校正は人に任せきりだったのではなかろうか。なにしろ同年に出た詩集『共謀者たち』さえ、「校正刷りは見ていません」とこの対話で語っているくらいだから、いわんや対話集においておや、という感じがする。

むかし松山俊太郎が現代教養文庫で『黒死館殺人事件』の校定版を出したとき、「カペルロ・ビアンカ」をはじめとする怪しいところは片端から本文を直すという暴挙(といっていいと思う)に出たことがある。でも今回ボルヘスの対話集を訳していて、不遜ながら松山翁の気持ちが少しわかったような気がした。

「カペルロ・ビアンカ」ほどではなくても、ちょっとこれはどうかな? と思うようなところがポツポツ見つかるのである。録音を文字起こしするときの単純なミスらしきものもあれば、ボルヘスの記憶違いに起因するらしいものもある。しかし対話集とはいえ、ボルヘス御大の本文を直すのはあまりに僭越な行いである。どうすりゃいいの~さ~しいああ~んんばあし~という感じである。

思案のあげく校定の原則は次のようにした。

(1) おそらく録音の文字起こしミスに起因するもので、仏訳で黙って本文を直しているところは、邦訳でも原則として黙って直す(一例をあげれば、 × mon vieux temps → 〇 bon vieux temps)。

(2) ボルヘスの記憶違いと思われるものは、本文はそのまま訳し、章末註でツッコミを入れる。

(3) よくわからないけど何となく変なものは、原則として本文はそのまま訳し、註も入れない(触らぬ神に祟りなしである。「ここは何となく変です」という註を入れるわけにもいかないし……)。

このツッコミ註の他に解説的な註もあるので、結果として註がやたらに多くなった。この『記憶の図書館』は世界八か国で翻訳されているらしいが、おそらく日本語訳ほど註が多い版はなかろうと思う。最初は『ジャーゲン』の註の数を凌駕して威張るつもりだったけれど、最終的に数えてみたら『ジャーゲン』に負けていた。残念である。

大宇宙の危機

これは8月23日の日記の続きです。
 
むかしむかし、某社のバラード短編全集のどれかの巻で、スケジュールが押せ押せになって、編集部総出でようやく地球の運命が救われたことがあったそうです。

しかし今回のボルヘスのケースはさらにすごくて、5月出版の契約にもかかわらず3月の時点で初稿ゲラさえ出ていなかったのですよ。しかもブツは2段組700ページの大冊です。地球どころか大宇宙の危機であります。

初稿ゲラが出たのが5月の半ばでしたが、空気を読まない訳者はゲラを赤字だらけにして返すのでした。ほら、都筑道夫の長篇に『朱漆 (うるし) の壁に血がしたたる』っていうのがあるでしょう。あんな感じで赤いのです。

その後どうなったかは詳しくは知りませんが、風の便りによれば、装丁原稿のラフを先方に送ったら大絶賛されて、おかげで期限のことはウヤムヤになったらしいです。まあなんにせよ無事に刊行できてほっとしています。もう池袋のほうには足を向けて寝られません。

しかしあれですね、バラードといいボルヘスといい版権物の翻訳というのはせわしくていけませんね。勝手に危機にされる地球とか大宇宙もさぞかし迷惑していることでしょう。とうの昔に版権が切れたものを相手にしているほうがずっと気が楽でいいです。

また佐野洋を読んだ


 
 
また佐野洋を読みました。というと「お前は佐野洋しか読むものはないんか~」と呆れられそうですが、いい意味でも悪い意味でも後を引かない、読んだらすぐに忘れられる(というとけなしてるようですが褒めてるんですよ。すくなくとも読後嫌な後味が残る本に比べれば数等ましです)から何度でも読み返しがきく佐野洋は気分転換に最適です。今ちょうど八月末までに終えなければならない翻訳のメドがついてほっと一息入れているところで、こんなときに読むのは佐野洋にかぎります。

今回読んだのは『砂の階段』。これは佐野洋作品の中では各段優れているほうではなく、佐野洋の全長篇をABCの三段階でランク付けすればBマイナスといったところでしょう。

なぜこの評価なのか。この小説では犯人Aが自分の秘密を知っているBを殺すのですが、殺すほどのことはないではないかというのがまずマイナスポイントその1です。別にのっぴきならない証拠を握られているわけではないので、仮にその秘密が漏れても、知らぬ存ぜぬで押し通せばなんとかなりそうな気がするのです。

マイナスポイントその2は、犯人Aが探偵役Cの注意をそらせるためにある行為をするところです。ところがなぜそんな行為をしたのかまったくわからない。読者は「まさか犯人がそんなことをするわけはないだろう」と思うので一種の目くらましになるのですが、作品世界の中だけで考えるとその行動の動機が理解できないのです。

マイナスポイント3は、この作品が当時世間をにぎわせたある大きな事件を背景にしているところです。犯人の動機はその事件を抜きにしては考えられないのですが、今のわれわれからすると「そんなこともあったっけ?」程度にその事件の記憶は遠のいているので(そもそも若い人はまったく知らないでしょう)今になって読むと犯行動機に切実みがないのです。
 
ところが今回再読するとけっこう読ませるのです。犯人が誰かを知ったうえで読むと、犯人がだんだん追い詰められていくのがリアルに感じられて、その点で手に汗を握ります。いうならばサスペンス小説としては上々といった感じです。

そこで思い出すのは、いつぞやも取りあげた『シンポ教授の生活とミステリ』のなかのサスペンス論「ウールリッチとハイスミスの間には深くて暗い河がある」です。ここで教授はサスペンス小説を自助型と破滅型に分類し、ウールリッチの『幻の女』を、「外見上は自助型であっても実質は破滅型サスペンスであるという離れ業に挑み、ある程度それに成功している」と高く評価されています。

この意味がわたしにはよくわからないのですが、あえて忖度するとたぶんこういうことではないかと思います。つまり、この小説の犯人に比較的早く見当がついた人にとっては、犯人の行動はまさに破滅型サスペンス以外の何物でもないので、たぶんそこを「離れ業」と評価したのではないでしょうか。ただ最後まで犯人の見当がつかない人には破滅型でもなんでもありません。現にわたしなどは、証人を次々消す手際のよさが素人離れしているので、犯人は警察官とばかり思っていました。

ということで、犯人を知った上で読むと、この『砂の階段』は実に破滅型サスペンスの秀作であって(佐野洋にもう少し文学的表現力があれば傑作になったかもしれません)、サスペンス小説と思って読むと、犯人が追い詰められ切羽つまってとった行動のひとつひとつも、また最後にとった手段も、実に腑に落ちる気がするのです。

『記憶の図書館』アマゾンで予約開始


 『記憶の図書館』のアマゾン予約がはじまりました。国書税厳しき折、恐縮ですがなにとぞご自愛を、じゃなくてもしよろしければ購入していただければとてもありがたいです。内容は価格をはるかに上回るというか、訳者が言うのもなんですが、この程度の値段なら内容にくらべればタダも同然ではないでしょうか。

 この本を出す話がはじまったのは二年前の夏、コロナのコの字もなかったのどかな時代のことでありました。国書I氏から「エージェントからこれこれの本(『記憶の図書館』の原本)の紹介が来たけどお前知ってるか」とメールが来たのです。その本にはたまたま目を通していたので「これはすばらしい本ですよ」と返信すると、「そんならお前が訳せ」とすかさずまたメールが届きました。

 それから日ならずして、版権が取れたという連絡とともに、原著三冊がドチャッと届けられたのであります。四百字詰め原稿用紙にして二千枚になんなんとする本の翻訳が、なんとメール一往復半で決まってしまったんですよ。恐ろしいではありませんか。むかし澁澤龍彦が石井恭二と古典文庫の打合せをしていたとき、その場で巖谷國士に電話をかけて『四運動の理論』の翻訳を依頼したという伝説がありますけれど、スピード感だけでいえばそれに劣らぬものがあります。

 それでこのブログの2020年12月30日の日記にありますように、去年の年末に一応訳了して送付しました。ただ訳文がまだ気にくわず、訳稿を取り戻してポチポチ直していた今年三月のこと、I氏からまたもや衝撃の知らせがありました。エージェントとの契約上五月までに出版しないといけないというのです。(続く、かもしれません)

『記憶の図書館』カバー公開

 山田英春氏のツイッターでボルヘス+フェラーリ対話集成『記憶の図書館』のカバーが公開されました。対談相手をつとめたフェラーリ氏もこのカバーを見て、「とてもオリジナルで美しさにあふれたカバーだ。東洋からのまたとない贈り物だ。カバーの真ん中にある内なる図書館は彼らがボルヘスの精神で仕事をしたことを示している」(大意)と大絶賛をしていると風の便りに聞きました。

 気になる定価は、ここだけの話ですが、今のところ6,800円 (税別) くらいが予定されていると、これもひそかに聞きました。初版部数は『ワルプルギスの夜』と同じ程度のようです。

 この本もまた昨今の国書の鈍器路線を踏襲していて、背表紙に表紙絵がスッポリ入るくらいの部厚さです。ペーパーバック版の『ダールグレン』が思い出されます。最近の国書の辞書に「分冊」の二文字はないのでしょうか。そしてたび重なる国書税の重圧にあえぐ人民をよそに、とあるロココ風の部屋では今日も優雅にクラヴサンが奏でられている模様です。フランス革命がいまにも起こりそうな塩梅ではありませんか。
 

キャベツのようなもの

 
 もしあなたの奥さんが薔薇の花の刺繍をしていて、しかしできあがったものが薔薇よりキャベツに似ていたとしたら、あなたはどうしますか。たぶん何も言わないのが家庭の平和のためにはベストだと思いますが、わたしには奥さんがいないので、そこのところはよくわかりません。

 しかしマリオ・プラーツは違いました。『生の館』で彼はこう書いています。「……あの宿命の日、妻の刺繍したバラの花が気に入らなくて、わたしが教えてやる、などと思ってしまったときに。そして、彼女の刺繍したキャベツのようなものに比べれば、バラに近いものができあがったので、わたしは得意になった」(写していて改めて感じますが、中山エツコさんの翻訳はすばらしいですね)。
 
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 得意になったプラーツは、そのまま刺繍にのめりこんでしまって、ソファーや三脚のカバーを次々と刺繍で飾ることになります。しかしこんなことまで本に書いてしまっていいのでしょうか。奥さんから「あのときあなたはキャベツみたいなものだって言ったわね」と、ずっと後まで事あるごとにブチブチ言われはしなかったでしょうか。いやわたしが心配しても仕方がないことですが。

夏のクラシック怪奇小説フェア

 三省堂書店神保町本店二階では今「夏のクラシック怪奇小説フェア」が開催中です。これを選書した人はきっとかなりのマニアだな……日本作家では高原英理さんの本だけがあるのが渋いではないか……と思いながら並んでいる本を見ていたら、版元品切増刷未定になって久しいグスタフ・マイリンク『ワルプルギスの夜』もあるではありませんか。今までどこに隠していたんでしょう。ともかく思いがけなく再登場したのはありがたいことです。

 その左隣に見えているのは『書物の王国』であります。これもまた超クラシックな本で、「まだ在庫があったのかーー」と驚きました。先日逝去された須永朝彦先生はこの叢書で大活躍されていて、「3王侯」「5植物」「8美少年」「9両性具有」「10同性愛」「12吸血鬼」「13芸術家」「16復讐」「19王朝」「20義経」と全二十タイトルのうち十タイトルの編者を務めておられます。今国書のサイトで調べたら、3、5,16、19、20はいまだに版元在庫があります。『ワルプルギスの夜』とともにこれが最後のチャンスかもしれません。

 そればかりではありません。下の平台には知る人ぞ知るあの伝説の怪書『いかさまお菓子の本 淑女の悪趣味スイーツレシピ 』も見えます。クラシック怪奇小説群の傍らにあえてこの本を並べた書店員の方のセンスに敬意を表したく思います。
 
 

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クラサカ風の館

 
 倉阪鬼一郎さん、日本歴史時代作家協会賞受賞おめでとうございます! 今日はそれを祝してクラサカ風の館の話をしましょう。
 
 倉阪さんのミステリの中には「立派な館かと思ったら実は〇〇だった」というのが何冊かありますが、実はこういう館は現実にもあるのですよ。少し前に待望の翻訳が出たマリオ・プラーツの『生の館』がそれを赤裸々に実証しております。
 
 この『生の館』は一種の奇書といっていいかと思います(まあプラーツの本は全部そうなのですが)。「玄関ホール」「食堂」「リッチ広場に面した寝室」というふうに、各部屋について一章があてられ、おのおのの部屋にある家具を説明しながら過去の思い出話を語るといった構成になっています。いろいろ面白いエピソードがあって、たとえばヴァーノン・リーが意外に世話焼きで面倒見のいいおばさん(失礼!)だったこともこの本でわかります。

 しかし語り方が独特で、ちょうどグロテスク様式の模様が人や植物や動物を縺れあわせつつ壁を覆いつくすように、この本ではアンティーク家具と人生の挿話があやめも分からないようにつながって描写されていて、一大奇観とでも称すべき状態になっています。タイトルの『生の家』はもしかすると『生すなわち家』という意味も込めているのかもしれません。

 この本には各部屋の写真も添えられています。たとえば大広間はこんな感じです。

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 いかにもあの『ロマンティック・アゴニー』を書いた人の家だなあという印象を受けるではありませんか。こういう贅沢に慣れていないわたしが見ると色彩感覚がどことなく変で吐き気のようなものさえこみあげてくる気がします。普通の意味での「趣味のいいインテリア」とは言えないのではありますまいか。とくにシャンデリアは、人さまの家をどうこう言うのは無作法ではありますが、ちょっと恥ずかしい気がしなくもないですが皆さんどう思いますか。

 まあそれはそれとして、肝心なのは終章の「ブドワール」です。そこにはこんなことが書いてあります。

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 つまり隣家に接した部屋は、壁が薄いために、そこの住人である警察官夫婦の「あさましくて下品で不快な」けんかの声が筒抜けだというのです。騒音ばかりか煙草の匂いまで侵入してくるというのですから、かなりの安普請のような気もします。どうです、実にクラサカ的な館ではありませんか。いままでの豪勢な描写は、実は叙述トリックだったのでは? という感じさえしてくるではありませんか。

 
 おうそういえば、プラーツも垂涎のアンティーク机で校正されたらしい拙訳書が、奥付の記載によれば来月発売されることになっています。乞うご期待!

ワクチン二回目

 昨日19時にワクチン(ファイザー)の二回目を打った。それからもう24時間経過したが腕が痛いほかは副反応らしい副反応は(少なくとも現時点では)出ていない。多くの人に出るらしい倦怠感も発熱もない。まあでも倦怠感が出たということにして今日一日は翻訳を休んでアンニュイな雰囲気に浸ろうと思う。ああ、ここはパリのモンマルトルの丘……雪は降るのにあなたは来ない……ワワワワ……ワワワワ……

 話は変わって今日解説の再校を戻したゲラを見ると奥付に「9月〇日発行」と書いてあってのけぞった。9月〇日発行といえば、気の早い版元ならアマゾンで予約がはじまってもいいころではないか。本当に出るのだろうか? それとも出版契約とのかねあいで奥付に鮎川哲也風のアリバイ工作をほどこしているのか? 奇絶! 怪絶! また壮絶!