ひとつ間違っていたら

 基本英単語シリーズ第二回は "return"。
 
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 ホームズの短篇集のタイトルでも、adverntures (冒険)とか memoirs (回想)などはいかにも適当かつ安直で、ことさら冒険なり回想なりにする必然性は乏しい。だが第三短篇集の return には「これでなくては!」という感じがある。このブログを見ている皆さんなら、理由はわざわざ言わずとも先刻ご承知だろう。書店でこのタイトルを見たときの当時のファンの昂揚感さえこの "Return" の六文字から伝わってくるようだ。

「うわぁホームズが帰ってきた!」
「よかったなあ。俺なんかコナンドイル先生に十通も脅迫状送っちゃったもんね」
「今夜は朝まで飲み明かそうぜ!」

とまあそんな感じだったのではなかろうか。おそらく。

 ところでこの "return" は、理屈っぽく言えば、「いったん他の場所に行っていた者が、そこから戻ってくる」みたいなニュアンスを持つ。列車のチケットの"day return"(一日往復券)などがその好例である。ではホームズの場合その「他の場所」とはどこか?

 そうそうそうなんですよ。この "return" にはデ・ラ・メアの佳作 "The Return" (邦題『死者の誘い』)と同じニュアンスが漂っている。そう思いませんか。

 その意味では『生還』を書いたころのコナン・ドイルがまだ心霊術に凝ってなくて本当によかった! ひとつ間違っていたら第三短篇集は霊界からホームズがワトソンに推理を披露するというシリーズになってたかもしれない。いわば『霧の国』のホームズ版である。

変な顔の美女

 
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 こういう本のタイトルをどう訳すべきだろう。「変なレディ」「変わったレディ」「奇妙なレディ」「風変わりなレディ」「異様なレディ」……どれも英文和訳としては満点なのかもしれない。だが意味はもう今一つ伝えきれてないのではあるまいか。この "strange" にネガティブな意味を持たせる意図は、おそらくこの本の著者にはないと思うから。だが「変な」や「変わった」と日本語にすると、否応なく悪いニュアンスがにじみ出てしまう。少なくとも称讃している感じはしない。——まあこれは言語の意味体系自体が英語と日本語で違うので、もうどうしようもないことなのかもしれない。

 ここで思い出すのは酒井順子があるエッセイで書いていたシーンである。なんでも歌舞伎を見ていたある外人が「ストレェエエエンジ!」と叫んだのだそうだ。それを聞いて、やはり歌舞伎は外人の目には異様に映るのだなと思った、と酒井氏はそのエッセイで書いていた(記憶違いなら失礼!)。でもたぶんこれは氏の勘違いで、その外人はおそらく、たとえば「ファンタスティック!」と言うのと同じ意味合いで「ストレェエエエンジ!」と叫んだのだと思う。つまり歌舞伎に反発や嫌悪を感じていたのでは必ずしもないと思う。

 もちろん翻訳をしていると "strange" あるいはそれに類する語はしょっちゅう出てくる。今でも覚えているのは『最後の審判の巨匠』のあるシーンだ。そこにはディナという名の美女が出てくるのだが、その顔が(英訳でいうと)”strange oval of her face” と形容されているのである。

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 これを直訳して「彼女の顔の奇妙な楕円」とすると、とても美女とは思えなくなる。ではどうしたか? 興味ある方はどうぞ拙訳をご覧ください、と言いたいところだが、とうの昔に絶版になっている。困ったものである。

決断の時

火星ラストソング

火星ラストソング


 倉阪鬼一郎さんの『火星ラストソング』を読みたくてたまらない。二年前に出た本らしいのだが、今まで全然知らなかった! 電子書籍でしか売っていないからだ。電子書籍は今まで避けてきたのだが、とうとう導入せざるをえない日が来たのかもしれない。

 実は少し前にも導入しかったことがある。去年の終わりころ、太田忠司さんの『麻倉玲一は信頼できない語り手』が本にならないと聞いたときだ。清涼院流水さえ出してしまったあのメフィストが本にできないというのだから、これはよっぽど奇妙奇天烈な小説に違いない——と(江戸川乱歩風に言うなら)わたしの中の鬼がムクムクと頭をもたげてきた。そこでやはり電子でしか売っていない『メフィスト』のバックナンバーを揃えようとしかかった——のだけれど、翻訳の締め切りが迫っていたことその他いろいろあってせっかくの機会を見送ってしまった。

 しかしここに大いなる障壁がある。電子書籍を読むためのデバイスを持っていないのだ。アドレナライズのサイトを見るかぎりでは、kindle、楽天kobo、iPadの三つの選択肢があるようだが、さてどれにしたらいいのか。kinndleはカスタマーレビューの星一つのところを見るちと買うのに躊躇するほどの酷評が並んでいる。koboは逆にレビューが少なすぎて不安である。思い切ってiPadなるものにするしかないのか……

黒死館あれこれ

「篠田真由美お仕事日誌」の2月25日のところを興味深く読んだ。この日記では小栗が『グリーン家』のどういう部分に不満を持ち、それを『黒死館』でどう変えていったかを推測しているのだが、実作者でなければ気づかないであろう点がいろいろあって面白い。とくに「小栗は犯人は誰でもいいと思っていたのでは」というくだりは「そうそうそうなんだよね」と膝を打った。

わたしなんぞは人間が甘くできているから、グリーン家の犯人には「殺人を犯すほどそれほど追い詰められていたのか!可哀そうに」とつい同情してしまうのだが、黒死館の犯人にはあまりそういうことは思わない。むしろ「かっとなってやった。犯人は誰でもよかった。今は反省している」というような小栗の述懐が聞こえてくるような気がする。

もっとも松山俊太郎翁の教養文庫版『黒死館』の解説によれば、あの犯人の設定にはのっぴきならぬ必然性があるという。しかし(言うてはなんだが)あの解説には、「マリー・ボナパルトの『エドガー・ポー』をあまりにも読み過ぎて陰謀論者になってしまいました」というところがなきにしもあらずだと思う。そもそも『黒死館』の犯人を生身の人間に設定すること自体に大いなる違和感を感じざるをえない。算哲が生前にディグスビイと協力して仕掛けた館の機械装置にやられたとか、実はみんなテレーズ人形のしわざでした! とかいう結末のほうがよっぽど納得がいくと思うがどんなもんだろう。

そうそう、そういえば、もうかなり前の話になるが、あるミステリマニアたちの会合に出たことがある。そこでたまたま澁澤龍彦の名が出たのだが、生粋のミステリマニアにとって澁澤がどういう存在かというと、これが何と「桃源社版『黒死館』の解説で犯人の名前をばらした悪い人」というふうな認識なんですね。これにはちょっと驚いた、というか「ところ変われば品変わる」という感じで面白かった。しかし澁澤にしても、あの小説の犯人は誰かなんてことは心底どうでもいいと思っていたに違いなくて、だからあえて犯人を明記したのだろうと思う。


 ところでこの画像は『彷書月刊』1985年11月号に掲載された松山俊太郎インタビューだが、ここでも翁は「『黒死館』の元は虫太郎のエディプス・コンプレックス」うんぬんという持論を語っている。それはそうと、「……秋の夜長を過ごすってのは、人生の醍醐味のひとつじゃあないですか」というような語り口から、山口勝也さんという人は江戸前のいなせな方なんだろうなと当時勝手に想像していたのだが、後年お会いしてみたら、予想とは全然違ったたいそう気さくな方だった。

仕事始め!

 誰かが澁澤龍彦を語った文章で、「日本人っていうのは結局モーレツ主義なんだよ!」と自嘲しながら澁澤が旅先でも仕事をしていたという話を読んだ記憶がある。ひょっとしたら贋の記憶かもしれないけれど、かの澁澤にしてそうなのだから、拙豚ごときが一杯機嫌で元日から仕事を始めるというのもまことに無理からぬことであろうと思う。新年最初の仕事はさる雑誌から依頼された(というか、正確には、こちらから「翻訳させてください!」と頼みこんだ)さる短篇である。

 てっきり本邦初訳かと思っていたら、ネットサーフィン(死語か?)しているうちに、業界の大先達による既訳があることを発見してしまった。これには少なからず凹んだ。でも落ち着いて考えてみたら、まあそりゃそうだよね……これほどの傑作が今まで誰の目にもつかなかったわけがない。

 しかしその大先達の既訳が載ったのは30年近く前のマイナー雑誌で、国会図書館にも日本近代文学館にも所蔵がない超稀覯資料である*1。もう一度日の目を見させるのも無駄ではあるまい、と気を取りなおしてふたたび机に向かうのであった。
 

*1:【追記】大宅壮一文庫にはあった! さすがだ。

仕事納め!

 去年の夏あたりからずっとやっていた翻訳がようやく完成しました。一行45字一ページ19行で印刷すると1200ページを越えるという大作です。
 
 
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 身代金の受け渡しなんかでは上と下だけが本物のお札であとは全部白紙というのがあるみたいですが、この画像は違いますよ! 全ページぎっしり文字がつまっています。
 
 分量が分量なので、そしてコロナの影響もあると思いますから、本になるのは早くて再来年あたりだと思います。『ワルプルギスの夜』や『怪奇骨董翻訳箱』のときは、『〇ャ〇全集』とどちらが早く出るだろうと手に汗を握りながらもかろうじて辛勝してきましたが、今度という今度はひょっとすると負けるかもしれません。

予言大的中

 
二か月ほど前のブログで「いつまでもあると思うな国書本」と注意を喚起したら、その言葉が讖をなしたか、なんと本当に『マルセル・シュオッブ全集』が品切増刷未定になってしまった!

でもまだまだ遅くはない。書店在庫はかなりある模様。おりしも今日はクリスマスイヴ、男子諸君におかれましてはこの全集をどーんとプレゼントすれば、彼女が大喜びすることはうけあいである。ツイッター界隈では時節柄カナル4℃のニュースでにぎわっているようだが、その点『マルセル・シュオッブ全集』なら鉄壁の安全牌といえよう。

あとのあとになって

 「あとになって」と題したほぼ一年前の日記で、鈴木信太郎訳ヴィヨンの「疇昔の美姫の賦」の中の「疇昔」の読みがわからないという話をした。どういうわけか現行の岩波文庫『ヴィヨン全詩集』では「疇昔」にルビをふっていないのである。

 ところが押し迫る年末に向けて書庫の整理をしていたら、鈴木信太郎著『詩人ヴィヨン』(岩波書店、昭30)という本が出てきた。そこでは嬉しいことに、「疇昔」にルビがふってあった!


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 なるほど「いにしへ」だったのか……。でも言うてはなんだが、「いにしへ」だとあまり面白くはないね。やはりここは「そのかみ」でないと。でもこれが最終稿とはかぎらない。この後で「そのかみ」に変えた可能性は残っている。いやそうであってほしい。

遍在するシャーロキアン

スペイン語大辞典

スペイン語大辞典

  • 発売日: 2015/09/25
  • メディア: 単行本


 訳あってスペイン語の辞書を穴の開くほど読みまくる日々が続いている。今日も土曜だというのに朝早くから白水社の『スペイン語大辞典』とにらめっこをしていたのだが、思わずわが目を疑う例文に出くわした。"recordar"(英語の "remind" に相当する語)のところにこんな例文があったのだ。


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「君を見ていると君のお母さんを思い出すよ」とか「彼女の目はまるで2つの輝く星のようだ」などは、まあ辞書の例文にありがちなもので、面白くもなんともない。問題はその次だ。「その事件はギリシア語通訳の事件と似ている」——えっ何これ? これが世間でいうところの「案件」というものなのだろうか。

汝90°以上開く勿れ

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 すでにあちこちで話題の『ダフォディルの花』をようやく入手した。装丁といい内容といい、帯に書いてある「うつくし、うつくし、うつくし」が素直に首肯できるような本だった。

 しかし一つだけ残念なのは、綴じが網代綴じであることだ。この造本とこのページ数で網代というのはちと無謀ではあるまいか。

 本を大切にする人はページを九十度以上開かないという。中には四十五度以上開かない人もいるらしい。あるいは全然開かない人もいるらしい。だが日頃思い切りページを開いている人も、この本にかぎっては、240ページと241ページのあいだは九十度以上開かないほうがいい。さもなくば大いなる災厄が汝を見舞うことであろう。まあこういうのは当たり外れがあるから、たまたまこちらが綴じのゆるい本に当たっただけなのかもしれないが……

 こんどIさんに会ったら、「Nさんの次の本は糸綴じにしてください」とお願いしてみようかしらん。それともやはりわたしから言うのは変に思われるだろうか。