魔界参入

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ついにわが陋屋にも到来した美の司祭四人の饗宴! 漏れ聞く噂によれば、白玉楼中で憩っていた澁澤を降霊術でむりやり召喚して作品選択をさせたのだという。えらい迷惑な話のような気もする。たぶん「まあ蔵書目録や伝記の恩もあるからな」としぶしぶ応じてくれたのだろう。

鏡花はいままで敬して遠ざけていたのだが、国書刊行会特有のすばらしいフォントと版面で、しかも総ルビでとなると、無視できるはずもない。この機会に世評高い魔界へと参入することにしようと思う。

『幻想と怪奇』の思い出


半世紀前の雑誌『幻想と怪奇』の傑作選が出るという。なんという素晴らしい企画ではないか! 今の人には『幻想と怪奇』は、われわれにとって『新青年』がそうだったような、名のみ聞く伝説の雑誌と化しているのではと思う。

この雑誌を知ったのは、たしか高校一年のときだった。山岳部に入っていたN君というクラスメートがいて、この男がある日飯盒を買う金が足りなくなり、第二号「吸血鬼特集」を200円でわたしに売りつけたのだった。

ここで一読たちまち大感激!となったならば話はうまくつながるのだが、記憶をたどってみるとあまりそうでもない(笑)。高校のときは実は岡山にいた。岩井志麻子先生によって有名になった「ぼっけえ、きょうてえ」というような言葉が日常的に聞こえるところである。また当時は金光教や黒住教がふつうに活動してして、バス停でバスを待っているとモラロジーの人がパンフレットを手渡してくれるような土地柄だった(今はどうなっているか知らない)。

ちなみに金光教はSF作家のかんべむさしが信者で、入信への経緯などを綴った『理屈は理屈 神は神』という本を書いている。狂信者臭もSF臭もなく、好ましい距離を保ちつつ心境が淡々と記されている好著である。どこかで復刊しないものだろうか。それから『子不語の夢―江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の超絶注釈が一部で絶賛の嵐となった村上裕徳さんも、今は金光教の住職か何かをやっておられるらしい。

閑話休題。そこで何を言いたいかというと、当時は、ウェイクフィールドとかそういう聞いたこともない作家を大仰に褒め称える「幻想と怪奇」のトーンに、教祖様を崇めるマイナー宗教の雰囲気を感じとっていたのだ。そこで「これはうかつに近付かない方がいいかもしれない」と警戒信号が灯った(笑)。だがそれでもキャベルの「月蔭から聞こえる音楽」とハートリーの「コンラッドと龍」にはたいそう感服し、「敵ながらあっぱれ」と思ったものだ。

その後いろいろあって全冊が手元に揃った。その話はまたいつか。

外国語内外国語

ギリシャ棺の謎【新訳版】 (創元推理文庫)

ギリシャ棺の謎【新訳版】 (創元推理文庫)


外国語で書かれた小説の中に、別の外国語が入っていることがある。たとえばエラリー・クイーンが会話の中でラテン語の引用句を挟むような場合である。たまたま手元にある本で例をあげると『ギリシア棺の謎』の第十二章でLa patience est améreなんとかかんとかとフランス語をつぶやくような場合だ。

今ではエラリー・クイーンくらいにキザな人間でもないかぎり、こんな恥ずかしいことはやらない。しかしフランス語が貴族の嗜みであった帝政時代ロシアの小説なんかではひんぱんにそういうのが出てくる。

こういうものの訳し方は、大きく分けて五通りあると思う。

  1. たとえば”ergo"の場合、"ergo"とそのまま訳文でも書き、「エルゴ」とルビをふって、割注で(故に)と説明する方法。上にあげたクイーンの井上勇訳はこの方式である。
  2. 訳文では「故に」と訳して書き、「エルゴ」とルビを振る方法。たぶん今はこの方法が主流だと思う。
  3. 「ユエニ」と、外国語部分の訳文をカタカナで書き、そこが外国語であることを匂わす方法。ロシア文学の古い翻訳で、会話中のフランス語を処理するときなどによく見られる。
  4. 「『故に』と彼はラテン語で言った」という風に説明的に訳す方法。たまに見かける。
  5. 単に「故に」とだけ訳し、原文がラテン語であることは訳文には表わさない方法。ことさら外国語であることを意識させないくらいにその国の言葉に溶け込んでいる表現の場合はこれで十分(たとえば「アプリオリ」など)。


拙豚はといえば、むかし井上訳でクイーンを読んでいた時、「エラリークイーンかっこいいなあ」と感銘を受けたせいもあって、自分の翻訳でも1の方式を愛用している。ただし読み方のルビは間違えると恥ずかしいので省略している。ペルッツの『林檎ちゃん』のときも、かなり長いフランス語が出てくるが、やはりこの方式にした。ただこの方式だと、原文と訳文が簡単に対比できるため、誤訳したときは一目瞭然になるという欠点もある。

『怪奇骨董翻訳箱』だと「コルベールの旅」にフランスかぶれの商人が出てきて、この人がやたらめったら会話にフランス語を混ぜる。このときも1方式で訳したのだが、そのゲラを見た局長と少し議論になった。局長は2方式にしないかというのだ。

このときはさすがにかなり迷った。1方式でやると日本語の文章にやたらに横文字が混じり、横文字のアルファベットと割注の小活字で版面がグシャグシャになって、見るからに汚らしくなるからだ。2のルビ方式にすれば、それほど汚くもなくなる。

しかし「ラ・パアシアンス・エ・タメール」などとカタカナでルビを振っても、フランス語を知らない人には念仏にしか聞こえないだろうし、逆にフランス語を知っている人にとっては、たどたどしいカタカナ書きより原文をそのまま書いた方がいいだろうと思った。

それからこのフランスかぶれ商人のキザぶりを表わすには、やはりフランス語をそのままアルファベットで書いて、異物感を強調したほうがよかろうではなかろうかとも思い、結局そのまま押し通したのだった。しかしこれについては今でも「これでよかったのだろうか」と迷っている。

ということで、『イヴ』の場合はそれほど異物感を強調する必要もなかろうと思っておおむね2方式にした。

篠沢教授のチンチンチン

今回の『イヴ』の翻訳で一番の難関だったのが冒頭のソネットの翻訳である。「だった」とつい過去形を使ってしまったが、初校ゲラ時点ではあまり決定稿という感じはしない。とはいえ『ジャーゲン』冒頭にある謎の五行詩ほどは難しくはないと思うから、ここで怯むわけにはいかない。

このソネットの読解には、僭越ながら、故・篠沢秀夫学習院大学名誉教授の「チンチンチン」というシステムを使わせていただいた。教授はこのシステムをマラルメの「処女であり、生気にあふれ、美しい今日」(篠沢訳では「無垢にして根強く美しき者は今日」)の解読に用いている。その解読過程の講義は『篠沢フランス文学講義Ⅱ』に収録されている。この本を読んだのは大昔のことだが、「詩とはこういうふうに読むのか!」と目を開かれるような体験だった。


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この「チンチンチン」というのはどういうシステムかというと、上の画像にあるとおり、後続のあらゆる可能性を考えながら一語ずつ区切って非常にゆっくり読んでいくというやり方である。マラルメの例でいえば、冒頭のvierge(処女)が名詞か形容詞かというところから話がはじまり、それが鈴木信太郎訳の「美しい今日」と篠沢訳の「美しき者は今日」との差に及んでいく。われわれはつい先ず全体を読んで、だいたい何を言っているかを知ろうとしがちだが、それではかえってわからなくなる場合もあるのだ。

最後的対話

中国の本もずいぶん手に入れやすくなった。なにしろアマゾンでぽちっとするだけでいいので止められない止まらないである。装丁もひところにくらべればずいぶんと垢ぬけてきたと思う。

で、最近買ったのがこの『最後的対話』の二冊。この本は英独仏西版がすでに出ているが、日本語訳は出ていない。中国に先を越された格好である。

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ひるがえって日本では、書店に行くたびに海外文学の棚が切り詰められているのがわかる。いずれ近い将来には、海外作品は日本語より先に中国語訳が出るのではないか(そういえば『ジャーゲン』も中国語版のほうが先に出たようだ)。欧米文学の愛好家も中国語を今から学んでおいたほうがいいかもしれない。

全部買ってもいい

東京創元社さんから60周年記念ブックケースをいただきました。どうもありがとうございます。売り上げに全然貢献していない、それどころかきっと足を引っ張っているであろうわたしにまで下さるとは恐縮です。カシオの電子辞書がちょうど入る大きさなので重宝しています。


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それにしても、こういう創元推理文庫のマークをちりばめたグッズを見るたびに思うのだが、なぜ本家本元の創元推理文庫の背表紙にこれらのマークを復活させないのだろう? こういうグッズが作れるということは、版権上問題があるというわけでもなさそうなのに。

いちおう「ミステリが多様化したため、マークの分類が実情にそぐわなくなった」というのが公式見解であるようだ。でもそれが言い訳にすぎないことはすぐわかる。というのは、文庫巻末の作品紹介を見ると、作品ごとに小さく〈本格ミステリ〉とか〈ハードボイルド〉とか書いてあるからだ。分類が難しくなったなんて、どの口が言うかな?


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従来の分類にはあてはまらないものがあった場合には、たとえばコージーミステリならホームベーカリーのマークにするとか、適宜増やしていけばよいではないか。あああの背表紙マークさえつけてくれれば、毎月の創元推理文庫を全部買ってもいいよ!

なのめに書き流したる

下の画像は特に名を秘す版元の、昔の本に挟まれていた愛読者カードだ。ここを見ている方なら「あああれね」とピンとくる方も多いと思う。


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ごらんのとおり斜めになっている。印刷ミスではないようだ。意図的に傾けているらしい。古老の話によればこの本の新聞広告も斜めになっていたそうだ。でもどうして?

ある小説には恋しい思いを伝えるために切手を斜めに貼る女性の話が出てきた。それからネットのどこかで見たのだが、ある会社では上司へのお辞儀の代わりに印鑑を斜めに押すということだ。そういうのに類したことだろうか。でも「類する」と言われてもどう類するのか。そもそも斜めだと書きづらくはないのか。読むときもハガキを斜めにして読むのか。とにかく疑問は尽きない。

項目に特に変わったところはないが、ただ一点、「本書についてのご感想」という三角のスペースに、「造本者へのご意見」というのがあるのがやや珍しい。よほど意見を言ってもらいたいのだろうか。

ともかく謎の多い版元ではある。相当にひねくれた版元ではないのかという気もする。

くとぅるーちゃんも驚愕

ただいま『イヴ』の初校ゲラと格闘中である。

鉛筆で丹念に書き込まれた藤原さんの疑問出しを見ていると、こんなに手間をかけさせて申し訳ない、と思うと同時に、「オレってこれほど英語ができなかったんだなあ」という感慨めいたものも湧いてくる。還暦を越えてようやく気づく衝撃の事実である。いや薄々は知っていたけど。

と書くと、「こんな奴に翻訳をやらせておいていいのか!」と国書刊行会に抗議に行きたくなる人も出てくるかもしれない。でもちょっと待ってほしい。矢野徹といえばかつてSF翻訳界の指導的立場にあった人だが、その矢野徹が言っていた。「SFの翻訳には中学で習う英語で十分」と。

わたしの経験からしてもこの言は正しい。ただ二つほど注釈が必要だろう。その一つ目は、ここでいう「中学の英語」とは、矢野徹が現役で活躍してた頃の中学英語であって、四技能が何とかという昨今の中学英語ではないこと。二つ目はここでいう「中学の英語」の力とは、試験で100点とれる力のことで、平均的な中学生の英語力ではないこと。語学においては一の確実な知識は十のあやふやな知識にまさる。だから高校の英語テストで70点とるより中学の英語テストで100点とるほうが翻訳力はあると思う。

とはいうものの、世の中には中学の英語ではどうにもならない英文があるというのもまた厳然たる事実である。『イヴ』も手ごわいが、わたしの見るところ『ジャーゲン』はもっと手ごわい、というか凝っている。なにしろのっけから、タイトルページの下にこんな擬古文みたいなものが書かれてあるのだ。


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ページをめくるとバートン・ラスコーへの献呈の辞がある。こっちは現代英語みたいだが意味が判じがたいには変わりはない。その名状しがたさにはくとぅるーちゃんもビックリだ。「ふんぐるい むぐるうなふ」とかそういうののほうがよっぽど意味明瞭だと思う。


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いわゆる差別語

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翻訳をする上で、特に古い作品を翻訳する上で、いわゆる差別語の問題は避けて通れない。わたし自身はそういうものが出てきたときは、原則として穏当な語に言い換えることにしている。すなわち大勢順応主義である。スッタニパータというありがたいお経にも書いてある。「イソギンチャクの角のように付和雷同で歩め」と(記憶による引用なので違っているかもしれない)。

「ものは言いよう」というのは確かにある。たとえば「覗き」というと忌まわしい感じだが、これを「屋根裏の散歩者」と言い換えれば、なにやら詩的な雰囲気さえただよってくる(まあやっていることは一緒なのだが)。「あまりにも明快な言い回しでは、星が月夜に色褪せるように、明察はその光輝を失う」と『文学におけるマニエリスム』にも書いてあるではないか。

さて、わたしの訳すものには、何の因果か、(英語でいえば)hunchbackという言葉がたびたび出てくる。初の翻訳書である『最後の審判の巨匠』からして、主要登場人物の一人がhunchbackだった。

ときどき本のおしまいのほうに、「著者自身に差別的意図はなく、また著者がすでに故人である等の事情に鑑み……」などと書いてあるが、ことhunchbackに関していえば、特に怪奇小説の場合、著者に差別的意図がなかったとは考えがたい。もっと言えば、単にグロテスクな雰囲気を出したいだけのためにhunchbackの人を登場させるのはやめてほしいなあと思うのだ。

ということで『最後の審判の巨匠』の場合は、hunchback(にあたるドイツ語)は自主的に「猫背」と訳した。こう変えても作品の価値は寸毫も揺らぐまいと確信してのことである。

なんでこんなことを書いているかというと、今度出る『イヴ』にもまたまたhunchbackが出てくるのだ。よほどこの言葉に憑かれているとしか思えない。しかも『イヴ』の場合、「猫背」みたいな滑稽感のある言葉は場面的にふさわしくない。はてさてどうしたものか。気絶怪絶また壮絶!

サンリオ文への挑戦

サンリオSF文庫といえば裏表紙の紹介文が懐かしい。

本のカバー等に記された内容紹介文は、本来その本への興味を持たせるために書かれるものであろう。ところがサンリオSF文庫裏表紙の紹介文には、そんな低次元の目的なんか気にしてたまるかとばかりに、ひたすら独自の道を行くものがままみられる。

たとえばこんなのはどうだろう。興味を引くとか引かないとか以前に、そもそも文章の意味がわかるだろうか。たとえば最後の「化している」の主語は何なのか。「小説の本質」?


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まあでもこれはまだマシなほうかもしれない。一文がさほど長くないうえ、読んだ人なら本のタイトルを当てられるかもしれないからだ。だが次のはもっとすごい。内容にあまり関係ない抽象的表現の羅列だけだから、読んだ人にさえ当てられないかもしれない。


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ところで今回『ジャーゲン』とともに作成されるマニュエル伝内容見本のうち、『イヴ』の内容紹介を書かせてもらえることになった。そのときとつぜんムクムクと、憧れのサンリオSF文庫の裏表紙紹介文のスタイルを真似てやれという野望が頭をもたげてきたのである。

ただテンションが十分ハイにならなかったのと、あんまり変なことを書いて売れ行きに悪影響があってはいけないという良識が邪魔をして、不完全燃焼気味に終わってしまった。本格的なサンリオ文への挑戦はまた他日を期したい。