くとぅるーちゃんも驚愕

ただいま『イヴ』の初校ゲラと格闘中である。

鉛筆で丹念に書き込まれた藤原さんの疑問出しを見ていると、こんなに手間をかけさせて申し訳ない、と思うと同時に、「オレってこれほど英語ができなかったんだなあ」という感慨めいたものも湧いてくる。還暦を越えてようやく気づく衝撃の事実である。いや薄々は知っていたけど。

と書くと、「こんな奴に翻訳をやらせておいていいのか!」と国書刊行会に抗議に行きたくなる人も出てくるかもしれない。でもちょっと待ってほしい。矢野徹といえばかつてSF翻訳界の指導的立場にあった人だが、その矢野徹が言っていた。「SFの翻訳には中学で習う英語で十分」と。

わたしの経験からしてもこの言は正しい。ただ二つほど注釈が必要だろう。その一つ目は、ここでいう「中学の英語」とは、矢野徹が現役で活躍してた頃の中学英語であって、四技能が何とかという昨今の中学英語ではないこと。二つ目はここでいう「中学の英語」の力とは、試験で100点とれる力のことで、平均的な中学生の英語力ではないこと。語学においては一の確実な知識は十のあやふやな知識にまさる。だから高校の英語テストで70点とるより中学の英語テストで100点とるほうが翻訳力はあると思う。

とはいうものの、世の中には中学の英語ではどうにもならない英文があるというのもまた厳然たる事実である。『イヴ』も手ごわいが、わたしの見るところ『ジャーゲン』はもっと手ごわい、というか凝っている。なにしろのっけから、タイトルページの下にこんな擬古文みたいなものが書かれてあるのだ。


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ページをめくるとバートン・ラスコーへの献呈の辞がある。こっちは現代英語みたいだが意味が判じがたいには変わりはない。その名状しがたさにはくとぅるーちゃんもビックリだ。「ふんぐるい むぐるうなふ」とかそういうののほうがよっぽど意味明瞭だと思う。


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いわゆる差別語

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翻訳をする上で、特に古い作品を翻訳する上で、いわゆる差別語の問題は避けて通れない。わたし自身はそういうものが出てきたときは、原則として穏当な語に言い換えることにしている。すなわち大勢順応主義である。スッタニパータというありがたいお経にも書いてある。「イソギンチャクの角のように付和雷同で歩め」と(記憶による引用なので違っているかもしれない)。

「ものは言いよう」というのは確かにある。たとえば「覗き」というと忌まわしい感じだが、これを「屋根裏の散歩者」と言い換えれば、なにやら詩的な雰囲気さえただよってくる(まあやっていることは一緒なのだが)。「あまりにも明快な言い回しでは、星が月夜に色褪せるように、明察はその光輝を失う」と『文学におけるマニエリスム』にも書いてあるではないか。

さて、わたしの訳すものには、何の因果か、(英語でいえば)hunchbackという言葉がたびたび出てくる。初の翻訳書である『最後の審判の巨匠』からして、主要登場人物の一人がhunchbackだった。

ときどき本のおしまいのほうに、「著者自身に差別的意図はなく、また著者がすでに故人である等の事情に鑑み……」などと書いてあるが、ことhunchbackに関していえば、特に怪奇小説の場合、著者に差別的意図がなかったとは考えがたい。もっと言えば、単にグロテスクな雰囲気を出したいだけのためにhunchbackの人を登場させるのはやめてほしいなあと思うのだ。

ということで『最後の審判の巨匠』の場合は、hunchback(にあたるドイツ語)は自主的に「猫背」と訳した。こう変えても作品の価値は寸毫も揺らぐまいと確信してのことである。

なんでこんなことを書いているかというと、今度出る『イヴ』にもまたまたhunchbackが出てくるのだ。よほどこの言葉に憑かれているとしか思えない。しかも『イヴ』の場合、「猫背」みたいな滑稽感のある言葉は場面的にふさわしくない。はてさてどうしたものか。気絶怪絶また壮絶!

サンリオ文への挑戦

サンリオSF文庫といえば裏表紙の紹介文が懐かしい。

本のカバー等に記された内容紹介文は、本来その本への興味を持たせるために書かれるものであろう。ところがサンリオSF文庫裏表紙の紹介文には、そんな低次元の目的なんか気にしてたまるかとばかりに、ひたすら独自の道を行くものがままみられる。

たとえばこんなのはどうだろう。興味を引くとか引かないとか以前に、そもそも文章の意味がわかるだろうか。たとえば最後の「化している」の主語は何なのか。「小説の本質」?


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まあでもこれはまだマシなほうかもしれない。一文がさほど長くないうえ、読んだ人なら本のタイトルを当てられるかもしれないからだ。だが次のはもっとすごい。内容にあまり関係ない抽象的表現の羅列だけだから、読んだ人にさえ当てられないかもしれない。


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ところで今回『ジャーゲン』とともに作成されるマニュエル伝内容見本のうち、『イヴ』の内容紹介を書かせてもらえることになった。そのときとつぜんムクムクと、憧れのサンリオSF文庫の裏表紙紹介文のスタイルを真似てやれという野望が頭をもたげてきたのである。

ただテンションが十分ハイにならなかったのと、あんまり変なことを書いて売れ行きに悪影響があってはいけないという良識が邪魔をして、不完全燃焼気味に終わってしまった。本格的なサンリオ文への挑戦はまた他日を期したい。

ヴァリスの訳注

サンリオSF文庫『ヴァリス』の訳注といえば、初読以来気にかかっているところが一か所ある。と書くと、「ああ、あそこね。うんうんわかるよ」とうなづいてくれるかたも何人かおられると思う。そう、ここである。


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ちなみにこの「トラヴル」は創元推理文庫版*1にも引き継がれている。鵜の目鷹の目リンクスの目を持つT京S元社の校閲陣がこれを見逃すわけはないから、おそらく訳者と校閲者のあいだでパチパチパチと火花が飛んだあげく、最終的に「トラヴル」に落ち着いたものだと思う。

かくいうわたしも、troubleのカタカナ表記としては、「トラブル」より「トラヴル」のほうがかっこいいと認めるにはやぶさかではない。しかし自らの訳文で「トラヴル」とやる度胸はない。いや仮にあっても、少なくともT京S元社の校閲陣は許してくれないだろう。

早く大御所になって好き勝手なカタカナ表記ができる身分になりたいものである。

*1:この当時はまだ創元SF文庫はなかった

風もないのに

ジャーゲン (マニュエル伝)

ジャーゲン (マニュエル伝)

『イヴ』の初校ゲラが来た。当分はこれにかかりきりとなるだろう。
それにしても毎度のことながら表記揺れの激しさには我ながらウンザリする。もちろん別に揺らそうと思って揺らしているわけではない。あたかもタヌキの〇〇のように、風もないのに揺れるのである。タヌキだって別に揺らそうと思って揺らしてるわけではないと思う。

あだしごとはさておき、国書刊行会の近刊予告に満を持して『ジャーゲン』が登場した。10月25日発売予定。追って美麗内容見本もできるというから楽しみなことである。

定価3600円(税抜)とは厳しい国書税だなと思ってよく見ると、ページ数が496ページもあるので驚いた。原書の厚さがさして変わらない『イヴ』は初校ゲラ段階で330ページしかないというのに、これは何としたことか。

きっと訳注がサンリオSF文庫の『ヴァリス』みたいなことになっているのだろう。恐ろしいではないか。『イヴ』の訳注はミニマムにするつもり。

峯太郎ホームズの美点その他

 山中峯太郎訳のホームズについては前にも書いたが、いまだその魅力から離れられず、とうとう古本屋でポプラ社版の安いのを見つけたら買うようにまでなった。病膏肓に入ったというべきか。フッフッフー。

 峯太郎訳はたしかに超訳・怪訳には違いないのだが、わたしの見たかぎりでいえば、他のどの訳にもない美点がある。何かというと、植民地帝国としてのイギリスの姿を巧まずして浮かび上がらせている点である。

 峯太郎自身にも大陸の植民地というものに対しある種のセンスがあって、無意識のうちにそれが反映されているのかもしれない。あるいは平山氏が注で詳細に指摘しているように、原作の細部をあえて改変し、リアリティをいわば補強していることもあずかって力あるのかもしれない(たとえばある作品では、原文の「下士官」を故意に「将校」と変えている)。

 たとえば「まだらの紐」や「謎の手品師(曲がった男)」で出てくる動物は、他の人の訳だと唐突に現れる感を免れないが、峯太郎訳だとそれが実に自然で、あたかも(変なたとえだが)水を得た魚のように出現する。「怪盗の宝(四つの署名)」のテムズ川でのシーンにしても然り。ああイギリスは島国だけれど、ちゃんと蛮地とつながっているのだなあという感を深くするのである。なるほどコナン・ドイル(1859 – 1930)はキップリング(1865 - 1936)の同時代人であったなあとあらためて気づいたりもする。

 キップリングといえば、これまた実に不思議な作家である。傑作「彼等」をはじめとして、いくつもの小説が謎めいた仄めかしのままに終わり、解釈は読者に委ねられる。そして読者の解釈はしばしば互いに一致しない。たとえば「バベルの図書館」に入っている「祈願の御堂」だが、これについて訳者の土岐恒二氏は月報で、「……と彼女は信じようとしており」とか「……見いだそうとしている」という表現を使い、いわばヒロインの主観が現実をねじまげているように語っている。しかしボルヘスの読みはおそらくそうではない。なぜかというと、もし土岐氏の解釈が正しければ、これは幻想小説でなくなり、したがってボルヘスが幻想小説アンソロジーである「バベルの図書館」に入れるはずもなくなるからである。

 ボルヘスが「おそらく一番心が動かされる」「その特徴のひとつは作中で奇跡が起こることである」と評した「園丁」も、やはり不思議な話である。物語のラストで「奇跡が起こる」のは間違いない。しかし土岐氏がヒロインを「未婚の母」と解釈するのはどんなものだろう。これだとせっかくの天上的なニュアンスがたちまち下世話なものに堕してしまわないか。わたしとしては「あなたの息子さん」というセリフは、あくまで象徴としての息子のことだと取りたい。

「なんなら」新用法への期待

二松学舎大学・島田泰子教授の論文「副詞「なんなら」の新用法」をたいそう興味深く読んだ。特にこの論文の「はじめに」に記された、一般には誤用とされる用法への柔軟な対応はとても共感できる。

この論文が指摘するように、近ごろは「なんなら」の伝統的でない使い方が跋扈している印象がある。「なんなら」というのは、わたしが中学二年から高校卒業までを過ごした岡山県では「何ですか」のくだけた言い方だったが、最近のツイッターなどで使われている用法はそれとは少し違うようだ。

島田教授は「なんなら」新用法のニュアンスを掴むのに苦労されているようだが、わたしはほとんど即座にわかった。たぶん教授よりはるかに日々ネットに入り浸っているせいだろうと思う。一言にしていえば、「なんなら」新用法のほとんどは、"I would say"と置き換えが可能である(つまりこの新用法は、「なんなら言うけど」の「言うけど」が脱落した形である)。だからこういう場合の「なんなら」は副詞というより挿入句として解釈したほうが(文法的には正しくないにしても)理解しやすいと思う。

この"I would say"、あるいはそれに類する接続法(あるいは仮定法?)的な言い回しは、翻訳のときにしばしば苦労する。ニュアンスを正確に伝えようとするとくどくなるか、あるいは直訳調になりがちなのだ。でも「なんなら」新用法がこのまま日本語に定着すれば、"I would say"とほぼ同じシラブル数で等価な翻訳ができる。これは翻訳家にとっては朗報ではなかろうか、とすくなくともわたしは密かに思っているのである。公言するとバカにされそうだから言わないけれど。

文学フリマ御礼

昨日は台風の近づく中、文学フリマ大阪に参加してきました。スペースに来てくださった皆さま、ありがとうございました。文学フリマは開催場所によってそれぞれ雰囲気が違うものですが、大阪の場合は溌溂というか、シャキシャキというか、浪速の底力を見せているというか、なかなか好ましい感じでした。梅田の迷宮が精神を病むほど入り組んでいるので大阪は今まで敬遠してましたが、来てよかったと思いました。

頭に猫耳をつけ、黒衣に身をかためた長身痩躯の女性が会場を徘徊していたので、「さすがに文学フリマには不思議な人が来るもんだな~」と感心して見ていたら、なんと弊スペースまであいさつに来てくださいました! その正体はとある版元の編集の方だったのです。驚くやら恐縮するやら。

かわいい女の子も来てくれました。未谷おとさんのお嬢さん。もう中学生になったというから月日のたつのは早いものです。

当日の出品物のなかでは翻訳文学紀行が出色のものでした。商業出版が難しそうな翻訳を私家版で刊行するというコンセプトはわが「エディション・プヒプヒ」と同じですが、レベルは「翻訳文学紀行」のほうがはるかに高いと思います。青を基調にしたカバーのアートワークも溜息が出るほど美しいです。書肆盛林堂や古書いろどりでも扱えばいいのにね~。

四時に撤収して新大阪駅に向かったら、ちょうど東京行きの最終が出るところでした。次は10月20日の文学フリマ福岡にお邪魔します。今回は出せなかった新刊も極力出そうと思っています。

ジーン・ウルフも負ける

キャベルのマニュエル伝を分担して訳している安野玲さんから、訳語のすりあわせについてメールをいただいた。そのメールによると、キャベル訳出はジーン・ウルフよりも大変なのだそうだ。

ジーン・ウルフより大変とはすごいですね、と言うとなんか人ごとみたいだが、その大変さはわたしも身に染みて感じている。訳稿はとりあえず先月末に送ったのだが、一番大変なところはまだ訳されていない。「もう少し考えさせてください」とお願いして宿題になっている。

どれくらい大変かというと、『イヴ』にはドイツ語訳とイタリア語訳があるのだが、文法さえ知らないイタリア語の訳本を辞書と首っ引きで読んだほうが、原文の英語よりはまだ訳しやすい(ところもある)というくらい大変なのである。ドイツ語訳のほうは西田政治みたいな人が訳しているらしく、適当すぎて話にならない。難しいところは平気で飛ばすし……

思うに英語は他の印欧語にくらべると文法がルースなだけに、いくらでも好きなだけ変な文体を作りだせるのではないか(個人の感想です)。それがある種の人にとってはこよなき魅力であると同時に、ある種の人にとっては諸悪の根源でもあるのだろう。

ある篤実な翻訳家がある難解な作品に手こずったあげく、「氏の文章には手応えどころか、遂には嘔吐と憎悪と、時として敵意をすら覚えることがあった」とあとがきに記し、その後まもなく亡くなったという。言うてはなんだがそんな話は英語以外では聞いたこともない。

という感じで二人してウンウンうなっているところに、特に名を秘す骨の人が、「キャベル販促のトークイベントを開きませんか」とかいってきた。悪いけれど今はとてもそれどころではない。訳了できるかできないかの瀬戸際なのだ。

『幽霊島』の刊行に寄せて

 
あなたが一流のレストランに行ったとしよう。コースを一通り堪能し、コーヒーを啜りながら、「ああ美味かった」と味を反芻しているとしよう。そんなときシェフが不意に現れて、「でも料理は自分の家で作るのが一番ですよ」と言い出したら、あなたはどう思うだろう。「何だこいつは?」と思うだろうか。

平井呈一の『怪奇小説傑作集1』での解説がまさにそれで、その文章はこう結ばれている。「冬の晩、字引をひきひき恐怖小説を読む醍醐味はなんともいえないもので、いちど味わったら長く忘れることのできないものです。試みにはじめてみられるといいと思います」

翻訳者としての役割放棄とも見られかねないこの言葉は、しかし、何百人かの人たちには啓示(あるいは呪言)として作用したとおぼしい。のちにカナダの幽霊小説専門書肆アッシュ-トゥリー・プレスが出した限定本は、総部数の半分を日本人が買っていると噂されたが、そんな謎めいた現象にも、平井翁のこの言葉が少なからず影響しているような気がする。

つまり翁の翻訳は翻訳というより言葉あるいは文化の溶け合わせともいうべきものだ。ちょうどラフカディオ・ハーンが日本の古譚のなかにghostly Japanを見出し、シンプルながら喚起力の強い英語で表現したと同じように、平井呈一もその類まれなる妖怪アンテナでとらえたghostly Englandを、日本語のなかに放流というか解き放ったわけである。まことにこの二人は、日→英と英→日と方向こそ異なれ、鏡面で隔てられた双子の兄弟みたいな趣がある。二人とも母語の文学への広い教養がバックグラウンドにあるという点をとっても。

表題作となっている「幽霊島」は「なんでこれほどの作品が埋もれているんだろう」とかねがね疑問に思っていたほどの名作。この機会に多くの人の目に触れるのは喜ばしい。